神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(7):第一次ペルシア戦争

イオーニアの反乱は6年続きました。しかし結局反乱はペルシアによって鎮圧され、イオーニア諸都市には罰が下されました。イオーニアの反乱の後始末をつけた後、ペルシア王ダーレイオスは、エレトリアとアテーナイに報復の軍を進めることを計画しました。ダーレイオスの言い分では、エレトリアとアテーナイはペルシア側から何も害を加えられていないのに、ペルシアを攻撃した、これは報復の正当な理由になる、というものでした。その役目を言い渡されたのはマルドニオスという若いペルシアの貴族でダーレイオスの娘と結婚する栄誉を得た者でした。しかし、マルドニオスの遠征軍はエレトリアに達する前に嵐によって大破してしまいました。そこでダーレイオスはマルドニオスを遠征軍の司令官から解任し、ダティスとアルタプレネスという者にこの役目を与えたのでした。

彼(=ダーレイオス)は遠征に失敗したマルドニオスの司令官職を解任し、別の司令官を任命してエレトリアとアテナイ目指して兵を進めようとした。新たに任命された司令官とはメディア出身のダティスと自分の従兄弟に当るアルタプレネスの両名であった。ダレイオスはこの二人に、アテナイとエレトリアを隷属せしめ、奴隷とした者たちを自分の面前に曳き立ててくるようにとの命を下し出発せしめたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、94 から

ダティスとアルタプレネスの軍は船によって運ばれ、エーゲ海を東から島伝いに西へ進み、エレトリアのあるエウボイア島を目指して進みます。途中彼らはナクソス島を占領しています。

その後ペルシア軍はエウボイア島の南端の町カリュストスに到達しました。ペルシア軍はカリュストスに、エレトリアとアテーナイを攻略するための兵を提供することを求めます。カリュストスはこれを拒否します。するとペルシア軍はカリュストスを攻撃して無理やり服属させました。

ペルシア軍はデロスを去って後、次々に島に接岸してそこから軍兵を徴用し、住民の子供を人質とした。ペルシア軍は島々を廻っている間にカリュストスへも寄った。カリュストス人は彼らに人質も渡さず、また近隣の町――というのはエレトリアとアテナイを指したものであったが――の攻撃に参加することも肯んじなかったからで、ペルシア軍はカリュストスの町を包囲攻撃しその国土を荒したため、遂にカリュストス人もペルシア軍の意に服することとなった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、99 から


ペルシア軍が間近に迫ったエレトリアはアテーナイに助けを求めました。

エレトリア人はペルシア軍が自国に向って艦隊を進めていることを知ると、アテナイに救援を求めた。アテナイは直接に援助することは拒んだが、その代わりカルキスのヒッポボタイの領地に入植した四千を、援軍としてエレトリアに送ることを承諾した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、100 から

アテーナイは自国の軍を派遣する代わりに、カルキスに入植したアテーナイ人4000名をエレトリアに派遣することにしたのでした。このアテーナイ人たちは、以前アテーナイがカルキスとの戦争に勝ったことによって、カルキスに入植するためにアテーナイから送られた人々でした。彼らはカルキスに住んでいるものの自分たちはアテーナイ人であると考え、アテーナイ政府の指示に従う人々でした。こうして援軍を得たエレトリアでしたが、実はその中にもペルシアに降参しようという一派も存在していました。

 しかしエレトリア人のとった方策は決して当を得たものではなかった。彼らはアテナイの救援を要請したが、実のところ国論は二つに割れていたのである。町を見捨ててエウボイアの山地に立籠ろうという一派もあれば、別の一派はペルシア方から私利を得られることを期待し祖国を売る手筈を整えていたのである。


同上

こういう状態では防衛もままならないと考えたエレトリアの有力者アイスキネスは、カルキスからのアテーナイ人部隊に、引上げを勧告しました。

当時エレトリアを牛耳っていたノトンの子アイスキネスは、この二派の目論見を知ると、来着したアテナイ人に自国の現状を悉く告げ、エレトリア人と破滅の運命を共にせぬために、母国に引き上げるように要請した。そしてアテナイ人はアイスキネスのこの忠告に従ったのであった。


同上

彼等はアイスキネスの忠告に従って引き上げたのですが、カルキスに引き上げたのではなく、母国アテーナイに引き上げたようです。エレトリアの次にはペルシア軍はアテーナイを襲うであろうと予想されていました。


(右:ギリシア兵とペルシア兵。アテネ国立博物館蔵)