神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アンドロス(4):レーラントス戦争


BC 8世紀頃、ギリシア世界の中で一番繁栄していたのは、アンドロス島の北にあるエウボイア島でした。その中でもエウボイアのまん中あたりにある2つの都市、カルキスエレトリアが繫栄していました。地理学者ストラボーンは、この2都市のひとつ、エレトリアがかつてアンドロス島を支配していた、と記しています。

エレトリア人がかつて持っていた勢力については、彼らがかつてアルテミス・アマリュンティアの神殿に装備された柱がそれを証明しています。その柱には、エレトリア人たちが3000人の重武装した兵士、600人の騎手、そして60人の戦車による祭礼の行列を仕立てた様子が刻まれていました。そして彼らはアンドロス、テーノスケオース、そして他の島々の人々を支配していました。


ストラボーン「地理誌」 10.1.10より

エレトリアがアンドロスを支配していたのはBC 8世紀から7世紀半ばまでの頃ではないかと思います。


ところで、エレトリアカルキスはBC 710年頃から戦争状態になります。原因は、両都市の間にあるレーラントス平野の領有権でした。現在この戦争はレーラントス戦争と呼ばれています。レーラントス戦争は、起きたのが古い時代のため文献資料が少なくて全容が分かっていません。歴史家ヘーロドトスは、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こした時にエレトリアが援軍を派遣した理由を説明する文章の中で、レーラントス戦争のことを書いています。

エレトリアがこの遠征に参加したのは、アテナイのためではなくミレトスへの恩義のためであった。というのは、昔エレトリアカルキスと戦った時、ミレトスエレトリアの側に立って援助したので――なおこのときエレトリアミレトスを敵として戦ったカルキスを助けたのはサモスであった――エレトリアとしてはその時ミレトスから受けた恩義に報いるという意味があったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、99 から

ここからレーラントス戦争当時、ミーレートスエレトリアに味方していたことが分かります。この戦争はBC 650年頃まで断続的に続くのですが、BC 700年頃、ミーレートスはエウボイア島の南の端にある町カリュストスを攻撃しています(英語版Wikipediaの「レーラントス戦争」の項による)。カリュストスは、アンドロス島の目と鼻の先です。アンドロスはエレトリア支配下にあったのですから、おそらくこの時ミーレートスと一緒にカリュストスを攻撃したのではないか、と推測します。トゥーキュディデースによれば、この戦争はギリシアの多くの都市が参加したということなので、アンドロスが参戦していた可能性は高いと思います。

自国の領土から遠くはなれた敵国を屈服させるための遠征は、ギリシア人のなすところではなかった。(ペロポネーソス戦争のように)強国を盟主に戴いて属国群が連盟を結成したり、あるいは対等な国々が協力して同盟軍をつのった例はたえてなく、陸戦といえは隣国間の争にとどまったためである。あえて例外を求めれば、古い昔にカルキスエレトリアの戦が行われたが、この戦では他のギリシア諸邦もいずれかの側と同盟をむすび、敵味方の陣営にわかれた。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、15 から


このレーラントス戦争は結局どちらが勝ったのか明確には分かっていません。分かっているのは、この長い戦争によってエレトリアカルキスも国力を衰退させたということです。

長い戦争の後、かつてギリシアの主要な地域であったエウボイアは、停滞に陥りました。敗北したエレトリアと勝者と思われるカルキスは、以前の経済的および政治的重要性を失いました。地中海市場では、以前エウボイアの陶器が占めていた支配的な役割を、コリントスの絵付き花瓶が引き継いでいました。植民活動の主導的な役割は、ミーレートス(東部植民活動)やポーカイア(西部植民活動)などの小アジア都市国家に引き継がれました。カルキスは長い衰退に入り込んだ一方、エレトリアが以前に支配していたキュクラデスの島々は独立したようです。


英語版Wikipediaの「レーラントス戦争」の項より

おそらくアンドロスもこの時にエレトリアの支配を脱して独立したのでしょう。