BC 8世紀頃、ギリシア世界の中で一番繁栄していたのは、エウボイア島のまん中あたりにある2つの都市、カルキスとエレトリアでした。ところで、このカルキスとエレトリアはBC 710年頃から戦争状態になります。原因は、両都市の間にあるレーラントス平野の領有権でした。現在この戦争はレーラントス戦争と呼ばれています。レーラントス戦争は、古い時代に起きたため文献資料が少なくて全容が分かっていません。
歴史家ヘーロドトスは、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こした時にエレトリアが援軍を派遣した理由を説明する文章の中で、レーラントス戦争のことを書いています。
エレトリアがこの遠征に参加したのは、アテナイのためではなくミレトスへの恩義のためであった。というのは、昔エレトリアがカルキスと戦った時、ミレトスがエレトリアの側に立って援助したので――なおこのときエレトリアとミレトスを敵として戦ったカルキスを助けたのはサモスであった――エレトリアとしてはその時ミレトスから受けた恩義に報いるという意味があったのである。
ヘロドトス著「歴史」巻5、99 から
ここからレーラントス戦争当時、ミーレートスがエレトリアに味方していたことが分かります。この戦争はBC 650年頃まで断続的に続くのですが、エレトリアの支配下にあったテーノス島はこの戦争に巻き込まれたのでしょうか? それについてはよく分かりません。ともかく、トゥーキュディデースによれば、この戦争はギリシアの多くの都市が参加したということです。
自国の領土から遠くはなれた敵国を屈服させるための遠征は、ギリシア人のなすところではなかった。(ペロポネーソス戦争のように)強国を盟主に戴いて属国群が連盟を結成したり、あるいは対等な国々が協力して同盟軍をつのった例はたえてなく、陸戦といえは隣国間の争にとどまったためである。あえて例外を求めれば、古い昔にカルキス対エレトリアの戦が行われたが、この戦では他のギリシア諸邦もいずれかの側と同盟をむすび、敵味方の陣営にわかれた。
トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、15 から
同じくトゥーキュディデースによれば、この頃にはまだ海戦というものがなかったということですので、テーノス人が戦いに参加したとしても海戦ではなく、船で敵地に上陸してそこで陸戦を行なうか、あるいはテーノス島に上陸した敵と戦うか、のどちらかであったようです。
このレーラントス戦争は結局どちらが勝ったのか明確には分かっていません。分かっているのは、この長い戦争によってエレトリアもカルキスも国力を衰退させたということです。
長い戦争の後、かつてギリシアの主要な地域であったエウボイアは、停滞に陥りました。敗北したエレトリアと勝者と思われるカルキスは、以前の経済的および政治的重要性を失いました。地中海市場では、以前エウボイアの陶器が占めていた支配的な役割を、コリントスの絵付き花瓶が引き継いでいました。植民活動の主導的な役割は、ミーレートス(東部植民活動)やポーカイア(西部植民活動)などの小アジアの都市国家に引き継がれました。カルキスは長い衰退に入り込んだ一方、エレトリアが以前に支配していたキュクラデスの島々は独立したようです。
おそらくテーノスもこの時にエレトリアの支配を脱して独立したのでしょう。デーロス島でのアポローン神の祭典が盛んになり、テーノスを始め近隣の島々から人々が集まって運動競技や詩歌の競演に参加したのは、その後のことではないかと思います。
デーロスでは遥か古い頃にも、イオーニア人や周辺の島嶼の住民たちが集う盛大な催しが行われていた。現在エペシア祭にイオーニア人が集るように、往時の人々は妻子とともどもに参詣にデーロスに集い、ここでは体育や音楽詩曲の競演がかれらの間でおこなわれ、各都市は詩曲上演の合唱隊をここに集めた。往時そのような催しがあったことを何にもまして雄弁に語っているのは、次に引くホメーロスのアポローン讃歌の一節である。
「さればそのときデーロスに、ポイボスよ、御心をこよなく楽しませたもうた、
そこには裳裾ひくイオーニアびとら集い、
家々の子や妻たちと共に汝の御社に神詣でて、
神の御心に喜びあれかしと、踊り、歌い、相撲の業をあい競うては、
神の御名を称えまつった。」
トゥーキュディデース著「戦史」 巻3、104 から