神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス(3):トロイア戦争

トロイア戦争が起こると、カリュストスの人々はエウボイアの王であったエレペーノールに率いられて戦争に参加しました。ホメーロスイーリアスでは、次のように歌われています。

さてエウボイアを領するは、その勢いも猛くはげしいアバンテスたち、
カルキスエレトリア、さては葡萄の房に饒(ゆた)かなヒスティアイア
また海に臨んだケーリントスや、ディオスの嶮しい城塞(とりで)を保ち、
またカリュストスを領する人々、あるいはステュラに住まうものら、
この者どもを率いるのは、エレペーノールとてアレースの伴侶(とも)、
カルコードーンの子で意気の旺(さか)んなアバンテスらが首領(かしら)である、
彼と一緒に敏捷(すばしこ)いアバンテスらが従って来た、後ろ側だけ頭髪(かみ)を延ばした、
戈を執っては名だたるものども、とねりこの槍をさし伸べ
敵の甲(かぶと)を 胸のあたりに突き破ろうと 勢いはやり、
これともろとも、四十艘の黒塗りの船が随って来る


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

アバンテスというのはエウボイアに広く住んでいた種族の名前です。さて、エレペーノールに率いられた40艘の船の中には、カリュストスが出した船もあったことでしょう。カリュストスを含むエウボイアの軍勢は海を越えたトロイアの地でどのように戦ったのでしょうか? イーリアスによれば、エレペーノールはかの地で戦死してしまったということです。エレペーノールを倒したのはトロイア方の将アゲーノールで、その父親アンテーノールはトロイアの老王プリアモスの相談役であるという高貴な身分の武将でした。エレペーノールは、トロイア方の将エケポーロスが倒れたのを見つけて、その着ている武具を戦利品として剥ぎ取ろうとしていたところを、アゲーノールに槍で刺されて殺されてしまったのでした。

まず筆頭にはアンティロコスが トロイア勢の鎧武者一騎をうち取った、
先陣にあっては武勇のさむらい、タリューシオスの子エケポーロスをば。
すなわちはじめに馬の房毛をつけた 兜の星をうち当ててから、
額に槍を突き立てれば、青銅をはめたその穂が中へと
骨をつきとおして入った、さればその眼を闇がおおうと、
どっとばかりに、塔をさながら、はげしい戦さの中に倒れた。
落ち入ったその足をひっ掴(とら)えたのは エレペーノールの殿とて
カルコードーンの子で、意気の盛んなアバンテスらの大将だったが、

一刻もはやくその武具を 剥ぎ取ろうとばかり心逸(はや)って、
矢弾(やだま)の外へ引きずり出そうと焦ったが、その突進もつかの間に
終ったのは、屍(かばね)を引いてゆくところを 意気盛んなアゲーノールが
見て取るや、脇腹の、かがんだ拍子に楯の横から 露われ出たのを、
青銅をはめて磨いた槍でつき刺したれば、(その)手肢(てあし)は萎(な)えくずおれた。


ホメーロスイーリアス」第4書 呉茂一訳 より


エレペーノールが戦死したのち、配下にいたカリュストスの戦士たちはどうしたでしょうか? 残念ながらそれについては伝わっていないようです。エレペーノールの代りに別の武将がエウボイア島からやってきた可能性もありますが、私は、それはなくて、カリュストスの戦士たちは、早々に戦場を後にし、故郷に帰ったのではないか、と想像します。


さて、トロイア戦争ギリシア側の勝利に終わります。しかし、勝利したはずのギリシア側の損害も大きなものでした。伝説によればギリシア側第一の武将であったアキレウスをはじめ、多くの君侯が戦死しました。総大将アガメムノーンは無事ミュケーナイに帰国しましたが、彼を待ち受けたのは妻による謀殺でした。智将オデュッセウストロイア陥落後10年間も地中海をさまよい続けなければなりませんでした。これらは伝説の話ですが、そこにはある程度、事実が反映されているようです。トロイア戦争があったとされるBC 1200年ぐらいから、ギリシア本土は急速に文明が退潮し、遺跡の質、量ともに低下しているからです。


この時代、カリュストスはどうなっていたのでしょうか? それについては伝えられていないようですが、大雑把なことは分かっています。まず、エレペーノールのようなエウボイア島全体を治める君侯がいなくなり、各々の都市が独立した、ということです。エウボイア島の場合、カルキスエレトリアという2つの都市が有力な都市になりました。もうひとつは、ギリシア本土を襲った動乱の影響をカリュストスも受けたということです。