神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス(5):グラウコス

レーラントス戦争からさらに100年ほど時代を下ったBC 6世紀に、カリュストスにグラウコスという少年がいました。彼は農家の息子でした。その生活は、きっと詩人ヘーシオドスが「仕事と日」に歌った様子に近いものだったでしょう。

耕耘(こううん)を始めるに当たっては、地の神ゼウス、浄(きよら)かなるデーメーテールにむかって、
デーメーテールの聖なる穀物が、健やかに育ち、重き穂を垂らしめたまえと祈れ――
犂(すき)の把手の端を片手に握り、革紐の留め釘に力をかけて犂(すき)を曳く牛の、
その背に突き棒を打ちおろす折の心得事(こころえごと)じゃ、
そのやや後から鍬(くわ)を持った下男が続き、種子を隠して
鳥どもに難儀をかけてやるのがよい。


ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より

ある日、グラウコスは父親とともに牛に犂(すき)を引かせて畑を耕していました。その時、犂(すき)の刃の部分が畑に落ちてしまいました。するとグラウコスは、手をカナヅチの代りにして犂の刃を元のところに取り付け直してしまいました。それがたぶん驚くべき打撃力を意味していたのでしょう、父親のデミュロスはこれを見て、息子をボクシングでオリンピックに出場させようとしたのでした。私はこの犂の留め方が今一つ分からないので、グラウコスがどういうふうに犂の刃を取り付け直したのか、それがどんなにすごいことなのか理解出来ていません。それはともかくとして、このせっかちな父親デミュロスはグラウコスをすぐにオリンピックに、つまりオリュンピア大祭の運動競技に参加させたのでした。


ここで脇道にそれますが、今では古代オリンピックと呼ばれているオリュンピア大祭の運動競技は、早くもBC 776年には始まっていたということです。よってBC 6世紀時点ではすでに170年以上の歴史がありました。オリュンピア大祭というのは、ペロポネーソス半島の西部にあるオリュンピアというところでゼウス神に捧げた祭典でした。この祭典に付属して、ゼウス神に奉納する運動競技が開催されたのでした。


古代オリュンピア大祭は4年に1回開催されましたが、古代ギリシアにはこの他にも似たような運動競技を伴う大祭があと3つありました。1つはネメア大祭といって、ネメアという土地で2年に1回開催されました。2つ目はコリントス地峡で2年に1回開催されたイストミア大祭で、3つ目はアポローンの神託所で有名なデルポイで4年に1回開催されたピューティア大祭でした。



グラウコスに話を戻します。父親に連れられて古代オリンピックのボクシング競技に参加したグラウコスですが、なにせボクシングの経験がないのでボロ負けでした。最後の対戦相手の時は今までの試合で負った傷のため、グラウコスはほとんど意識がないように見えました。その様子を見た父親のデミュロスはグラウコスに向って叫びました。「息子よ、犂(すき)を叩け」 するとグラウコスはきっと何かをつかんだのでしょう、鋭い打撃を相手に与え、相手を倒すことが出来たのでした。


その後グラウコスはオリュンピア大祭で1回、ピューティア大祭で2回、ネメア大祭で8回、イストミア大祭で8回、優勝を勝ち取ることが出来、カリュストスのグラウコスの名はギリシア中に轟きました。後年、グラウコスが亡くなった時、カリュストスの人々は島に彼を埋葬しましたが、その島はそれからグラウコス島と呼ばれるようになったということです。


さて、このグラウコスは、海の神グラウコスの子孫だと言われていました。ギリシア神話にはポセイドーンをはじめいろいろな海の神が登場しますが、このグラウコスはどちらかと言えば地位の低い神です。彼は元々は人間であったのであって、エウボイア島の西の本土側にあるボイオーティア地方の小さな漁村アンテードーンというところに住んでいた漁師だと伝えられています。その彼がある時ふしぎな草を食べて不死となり、海に飛びこんで海の神になったのでした。さらに予言の力も得てしまいました。この神になったグラウコスの姿はというと、上半身は人間ですが下半身は魚であり、その顔には緑青のような色のヒゲが生えていました。グラウコスはクジラやアザラシといった海のけものたちを引き連れて、島々をめぐったり航海中の船の前に現われたりして、漁師たちに予言を与えるとされていました。そのために海に生きる人々の崇拝を受けていました。

(上:海の神グラウコス)


この海神グラウコスの子孫がボクサーになったカリュストスのグラウコスだということです。海神のグラウコスからボクサーのグラウコスまでの系譜やそれにまつわる伝説があれば知りたい、と私は思うのですが、どうもそれは伝わっていないようです。