神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テオース(4):ペルシアの侵攻

その後の数百年のテオースの歴史を私はたどることが出来ませんでした。いろいろなことが疑問のままです。テオースの王制はいつまで存続したでしょう? ホメーロスが活躍した時代、テオースはホメーロスと何か関りがあったでしょうか? 東にプリュギア王国が勢力を伸ばしていた時、テオースはどう関わったでしょうか? 凶暴な遊牧民族のキンメリア人が東からやってきてプリュギア王国を滅ぼし、その後イオーニアにやって来た時、テオースはどう対処したでしょうか? 


さて、時代は下ってリュディア王クロイソスが王位に就いたBC 560年まで進みます。この頃までにテオースはエジプトとの貿易で栄えるようになっていました。エジプトにあったギリシア人の都市ナウクラティスのヘレニオン神殿の建立者の中にテオースの名前があります。他の建立者はキオスポーカイアクラゾメナイ、ロドス、クニドスハリカルナッソス、パセリス、ミュティレーネーの町々でした。


さて、リュディア王クロイソスは即位するとイオーニアの諸都市を自分の支配下に収めようとしました。

アリュアッテスの死後、その子クロイソスが三十五歳で王位を継いだ。クロイソスが攻撃の戈を向けた最初のギリシア都市はエペソスである。(中略)クロイソスはエペソスに先ず手を染めたのであったが、ついでイオニア、アイオリスの全都市にさまざまな言い掛かりをつけて攻撃した。重大な理由の見付かるときは、それをもち出すのであるが、時にはとるに足らぬ口実を盾にすることもあった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、26 から

テオースもまたリュディアの支配下になりました。


その後、リュディアはその東に迫って来たペルシアを迎え撃ちます。ペルシア王キューロスは、イオーニア諸都市に密使を送り、リュディアに対する反乱を呼びかけます。しかしミーレートスを除くイオーニア諸都市はリュディアがペルシアを撃退するであろうとの見通しをもって、キューロスからの誘いに乗りませんでした。ところが予想に反し、キューロスはリュディアに圧勝し、クロイソスを捕虜にしてしまいます(BC 546年)。リュディア王国は滅亡しました。イオーニア諸都市はあわててキューロスの意を迎えようとして使者をキューロスのもとへ送りました。しかしキューロスは使者に対して、以前は自分の頼みを聞いてリュディアに背かなかったことをなじったのでした。

イオニア人とアイオリス人は、リュディアがペルシアに征服されるとすぐに、使いをサルディスのキュロスの許へ送った。クロイソスに隷属していた時と同じ条件でキュロスにも従いたいと思ったのである。キュロスは彼らの申し出をきいてから、こんな寓話を話してきかせた。――ひとりの笛吹きが海中の魚を見て、笛を吹けば陸に上ってくるかと思って笛を吹いた。ところが当が外れたので、投網をもちだしたくさんの魚を捕えて陸へ曳き上げたが、魚がバタバタはねまわっているのを見てこういった。「おい踊るのを止めないか。お前たちは俺が笛を吹いたのに、出てきて踊ろうともしなかったくせに。」
 キュロスがイオニア人にこんな話を聞かせたのは、以前キュロスがイオニア人に使者を送って、クロイソスに叛いてくれと頼んだときにはいうことを聞かず、ことが終った今になってキュロスに従う態度に出たからであった。
 キュロスは怒りに駆られて彼らにこういったのであったが、このことはイオニアの町々に報告され、イオニア人はこれを聞くと、それぞれ町のまわりに城壁を築き、ミレトス以外の全イオニアの住民がパンイオニオンに集合した。


ヘロドトス著 歴史 巻1、141 から

テオースも「町のまわりに城壁を築」いたと思います。イオーニア人たちが集まったというパンイオーニオン(全イオーニア神殿)というのはイオーニア同盟のための神殿で、連合全体の問題を議論する際にはここに集まる慣わしになっていたのでした。この会議は何度か開催されたことと思います。その中のひとつで、ミーレートス出身の哲学者(というか賢者というべきかもしれません)ターレスは次のような意見を述べました。

ミレトスの人タレスの述べた見解もまた有益なものであった。タレスの祖先はフェニキア人であったが、彼の意見というのは、イオニア人は単一の中央政庁を設けて、イオニアの中央に当るテオスにこれを置く、ただし他の町々はそのまま存続しいわば地方行政区と見做される、というものであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、170 から

しかし、この意見は採用されませんでした。個々の町が個別に対処することになったのでした。やがてペルシアの将軍ハルパゴスがイオーニアの町々を攻略し始めました。

ハルパゴスはこの時キュロスから司令官に任命され、イオニアに着任するや、彼は盛り土作戦によって次々に町を攻略していった。つまり相手を城壁内に追いつめておいては、敵の城壁の前に土を盛り上げて攻略したのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、162 から

イオーニアの都市のひとつであるポーカイアの場合は、ペルシア人の隙をついて町から脱出してしまいました。テオースもこれに倣いました。

テオスの市民のとった行動も、右のポカイアの場合に似ている。ハルパゴスが盛り土戦術でテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。この町はこれより先クラゾメナイの人ティメシオスが植民したところであるが、トラキア人に追われ有終の美をおさめることができなかった。彼はしかし現在アブデラ在住のテオス人によって英雄神として祀られている。


ヘロドトス著 歴史 巻1、168 から

さらに一部のテオースの人々はもっと遠く、黒海の北側まで逃げていってパナゴレイアの町を建設しています。アブデーラとパナゴレイアの位置を下の地図に示します。

他の町々は全てペルシア軍に占領されて、ペルシアの支配に組み込まれることになったのでした。ではテオースの町はこれで滅亡したのかというとそうではなく、その後も存続しています。そのあたりの事情はよく分かりませんが、どうやらペルシアによる征服が一段落したところで、亡命した人々がテオースに戻って来たようです。