神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テオース(3):初期の出来事

テオースへの最初の植民団を率いたアタマースの先祖であるアタマースの物語を紹介しました。先祖のアタマースには物語が豊富に存在していました。しかし植民団を率いたアタマースについては、調べた限りでは以下の短い物語しか見つかりませんでした。


アタマースが植民市を建設するのに適した場所を探している間、彼の娘アレアを残しておきました。幼いアレアは小石を集めて家を作りました。アタマースが戻ってきて娘に何をしているの、と聞くと、アレアはこう答えました。
「お父様が探している間に、お父様が町を建てることが出来るようにと私はこれを見つけました。」(テオース・シュ・エゼーテイス、イナ・ポリン・クティセース、エウロン)
この「間」という言葉、ギリシア語で「テオース」というのにちなんでこの町の名前はつけられ、その町はアレアの石の家のところに建設されたということです。(出典。JONATHAN RYAN STRANG著「THE CITY OF DIONYSOS: A SOCIAL AND HISTORICAL STUDY OF THE IONIAN CITY OF TEOS」)


私は、この神話と歴史の狭間にあるこの時代の話を知りたいとずっと思ってこのブログを書いているのですが、結局、この時代についてはほとんど分からない、という結果に終っています。その後テオースにやってきたメラントスの曾孫アポイコスや、コドロスの息子ダマソスとナオクロスについては何も分かりませんでした。


そこで、もう少し広くイオーニア全体を見てみると、ヘーロドトスの「歴史」に次のような記事を見つけました。この記事はイオーニア人というものは、さまざまな種族が混じったものである、というヘーロドトスの見解を示したものです。以下の引用で「彼ら」とあるのはイオーニア人のことです。

彼らの重要な構成要素を成しているエウボイアのアバンテス人は、名前からいってもイオニアとは何の関係もない種族であるし、またオルコメノスのミニュアイ人も彼らに混入しており、さらにカドメイオイ人、ドリュオペス人、ポキス人の一分派、モロッシア人、アルカディアのペラスゴイ人、エピダウロスのドーリス人、その他さらに多くの種族が混じり合っているのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、146 から

上の引用で「オルコメノスのミニュアイ人も彼らに混入しており」という記事は、パウサニアースが「テオースには、かつてオルコメノスのミニュアイ人が住んでおり、彼らはアタマースと一緒にやって来ました」という記事を支持するものです。さらにヘーロドトスを読んでいくと、次のような記事もありました。

イオニア人の中には、ヒッポロコスの子グラウコスを祖とするリュキア人の一族を王に立てたものもあり、またメラントスの子コドロスの後胤であるピュロスのカウコネス一族を奉ずるもの、またその両方から王を戴くものなどさまざまであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、147 から

イオーニア人の町々は、リュキア人の一族を王に戴いたり、コドロスの子孫を王に戴いたり、あるいはその両方から王を戴いたりしていた、ということです。テオースの場合、コドロスの子孫ではなく、メラントスの子孫ではあるがコドロスとは別系のアポイコスを祖とする王家を戴いていたのでしょう。リュキアというのは小アジアの南西あたりの地域を指します。ヒッポロコスの子グラウコスはトロイア戦争でリュキア人を率いてトロイア側で参戦する英雄です。


パウサニアースの「ギリシア案内記」にはほかにもテオースに関する記述があります。イオーニアのポーカイアという都市が、テオースからコドロス王の子孫(これをコドリダイと言います)を王として受け入れたという記事です。

ポーカイア人は、まだポーキスと呼ばれているパルナッソスの麓の地に由来し、彼らはアテーナイ人のピロゲネースとダモーンとともにアジアに渡りました。彼らは戦争ではなく同意によってキューメー人から土地を得ました。イオーニア人たちがコドリダイの王たちを受け入れるまで彼らのイオーニア同盟加入を認めなかったとき、彼らはエリュトライとテオースからデオイテース、ペリクロス、アバルトスを受け入れました。


パウサニアース「ギリシア案内記」 7.3.10 より

コドロス王はアテーナイの伝説的な王で、その息子たちがアテーナイの植民団を率いてテオースにやってきたのでした。その息子の血縁の者をポーカイア人は自分たちの王として迎えたようです。ここに登場するイオーニア同盟というのは、イオーニアの12の都市の緩いつながりです。その12都市とは、以下の都市です。