神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クラゾメナイ(5):ペルシアの統治下で

その後、リュディアはその東に迫って来たペルシアを迎え撃ちます。ペルシア王キューロスは、イオーニア諸都市に密使を送り、リュディアに対する反乱を呼びかけます。しかしミーレートスを除くイオーニア諸都市はリュディアがペルシアを撃退するであろうとの見通しをもって、キューロスからの誘いに乗りませんでした。ところが予想に反し、キューロスはリュディアに圧勝し、クロイソスを捕虜にしてしまいます(BC 546年)。リュディア王国はあっけなく滅亡しました。イオーニア諸都市はあわてて使者をキューロスのもとへ送りましたが、キューロスは使者に対して、リュディアに背かなかったことを非難しました。キューロスの怒りは使者によってクラゾメナイにも知らされました。

このことはイオニアの町々に報告され、イオニア人はこれを聞くと、それぞれ町のまわりに城壁を築き、ミレトス以外の全イオニアの住民がパンイオニオンに集合した。


ヘロドトス著 歴史 巻1、141 から

イオーニア人たちが集まったというパンイオーニオン(全イオーニア神殿)というのはイオーニア同盟のための神殿で、同盟全体の問題を議論する際にはここに集まる慣わしになっていたのでした。彼らはスパルタに救援を求めることにしましたが、スパルタは救援要請を断ってきました。翌年、ペルシアの将軍ハルパゴスがイオーニアの町々を攻略し始めると、町は個別に対抗するだけでした。

ハルパゴスはこの時キュロスから司令官に任命され、イオニアに着任するや、彼は盛り土作戦によって次々に町を攻略していった。つまり相手を城壁内に追いつめておいては、敵の城壁の前に土を盛り上げて攻略したのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、162 から

そしてイオーニア諸市は

ハルバゴスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れ占領されて、それぞれ祖国に留まり、ペルシアの命に服することになった


ヘロドトス著 歴史 巻1、169 から

のでした。


この頃のクラゾメナイの特産品の一つはオリーブ油でした。クラゾメナイの遺跡からは、BC 550~525年のものと推定されるオリーブ圧搾装置が発掘されています。


特産の2つ目は意外なものです。それは石で作った棺桶です。それには絵が描かれていました。それらの絵を見ると私にはギリシア風ではなく、エジプトやペルシアの絵のように見えます。スフィンクスの絵がよく出てくるのですが、これは何か宗教的な意味がありそうに感じます。しかしその意味するところは私には分かりません。




ペルシアの許でクラゾメナイは、エジプトとの貿易などでそれなりに繁栄しておりました。エジプトに設立されたギリシア人都市ナウクラティスに、クラゾメナイは他の都市と共同で神殿を建立し、ヘレニオン(ギリシア神殿)と名付けています。この神殿を建立したギリシア都市国家の名前をヘーロドトスは伝えています。

最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の多い神域は、ヘレニオンと呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系ではキオステオスポカイアクラゾメナイの諸市、ドーリス系ではロドス、クニドスハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。


ヘロドトス著 歴史 巻2、178 から


このままおとなしくしていれば、それなりに繁栄を享受できたのでしたが、BC 499年、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こすと、クラゾメナイは自他の戦力をわきまえず、軽率にもこれに参加してしまいます。ペルシアはBC 497年に軍をイオーニアおよびアイオリスに派遣し、クラゾメナイは住民を沖合の島に避難させましたが、結局、降伏せざるを得ませんでした。

サルディスの総督アルタプレネスと、第三の指揮官オタネスとは、イオニアおよびこれに近接のアイオリスに出征を命ぜられ、イオニアではクラゾメナイ、アイオリスではキュメを占領した。


ヘロドトス著「歴史」巻5、123 から

その後も、町は島に残り続けました。