神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ピュロス(9):ネーレイダイ(ネーレウスの子孫)

古典時代のギリシアにはピュロス王ネーレウスの子孫(ネーレイダイ)を主張する家柄があちこちにありました。有名なものはアテーナイの名門貴族の一族アルクマイオニダイです。彼らは、ネーレウスの子ネストールの子トラシュメーデースの子シロスの子アルクマイオーンを始祖とする家柄です。前回の最後に引用したパウサニアースの記述によれば、ヘーラクレイダイがピュロスを占領した際に、アルクマイオーンがピュロスを追放されたということです。

そこで彼ら(=ヘーラクレースの子孫)は(中略)ネストールの子孫をメッセーネーから追放しました。すなわち、トラシュメーデースの子シロスの子アルクマイオーン、ペイシストラトスの子ペイシストラトス、アンティロコスの子パイオーンの子らで、彼らと共に ペリクリュメノスの子ペンティロスの子ボロスの子アンドロポンポスの子メラントスもいました。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.18.8 より

追放されたアルクマイオーンはアテーナイに亡命し、貴族アルクマイオニダイの祖先になりました。この家系の当主は代々アルクマイオーンまたはメガクレースの名前を名乗っていたようです。高校の世界史の教科書に出て来る「クレイステネースの改革」を行なったアテーナイの政治家クレイステネースはアルクマイオニダイの出身です。アテーナイの最盛期を作った政治家ペリクレースは、母方がアルクマイオニダイの出身でした。



(右:クレイステネース)




(右:ペリクレース)


上のパウサニアースの記述は、アテーナイ人となったネーレイダイの起源を説明しています。

  • アルクマイオーンの次の記述である「ペイシストラトスの子ペイシストラトス」について述べます。最初のペイシストラトス「(7):テーレマコスのピュロス訪問」に登場したネストールの末の息子であるペイシストラトスです。そのペイシストラトスに同名の息子がいたということです。このペイシストラトスの子孫はやはりアテーナイに移住し、そこからアテーナイの僭主となったペイシストラトスが出ています。
  • その次の「アンティロコスの子パイオーンの子ら」については、アンティロコスがネストールの長男であり、彼はトロイア戦争で父親を守るために戦って敵に討ち取られたのでした。その子パイオーンについては物語が伝わっていません。そしてヘーラクレイダイに追放されたのはパイオーンの息子たちですが、パウサニアースは彼らの名前を記していません。パウサニアースによれば、パイオーンの息子たちもアテーナイに移住し、パイオニダイという家柄になったということです。
  • 最後に「ペリクリュメノスの子ペンティロスの子ボロスの子アンドロポンポスの子メラントス」についてですが、ペリクリュメノスはネストールの子ではなく、ネストールの兄で、ネーレウスの子です。「(3):ヘーラクレースの侵攻」にあるようにペリクリュメノスはヘーラクレースに殺されたのでした。メラントスまでの系譜に登場するペンティロス、ボロス、アンドロポンポスについては物語が伝わっていません。メラントスについては、以下の物語が伝わっています。


メラントスはピュロスを追われたときにまずデルポイに行き、アポローン神の神託を求めました。すると神託は「頭と足とを食事に供された所に留まるべし」と告げました。その後、アテーナイの隣のエレウシース(古典時代にはアテーナイ領になっていた)に来たところ、犠牲の動物(牛?)の残りとして頭と足とを供されたので、ここが神託の場所であると考え、ここに留まったのでした。この頃のアテーナイ王はテーセウスの子孫のテューモイテースでした。彼はボイオーティアの王クサントスとオイノエーの町の領有を巡って争っていましたが、クサントスはテューモイテースに対して王同士の一騎打で領有を決することを提案しました。テューモイテースはこの勝負を恐れたので、代りに戦って勝った者に王位を譲ると布告しました。メラントスはこれに応じ、クサントスと戦いました。戦いの最中、メラントスはクサントスの背後に黒いアイギス(楯)を持った戦士がいるのを見ました。メラントスはそれはルール違反であると思い、後ろにもう一人いるではないか、とクサントスをなじりました。それを聞いたクサントスは驚いて(彼はそんな助っ人の心当たりはなかったので)振り返りました。この瞬間、メラントスはクサントスの首を刺して、彼を倒しました。この黒いアイギスを持つ戦士は実はディオニューソス・メラナイギス「黒いアイギスディオニューソス」でした。アテーナイ人はこの神に感謝してその神殿を建て、メラントスを王としました。このメラントスの息子がコドロスで、彼もアテーナイ王になりました。コドロスの息子アンドロクロスは、小アジアに植民してエペソス市を建設しました。コドロスの別の息子ネイレウスは、やはり小アジアに植民してミーレートス市を建設しました。


このようにメラントスの子孫は小アジアのイオーニア系諸都市の建設者となっていますが、どうもこれはアテーナイ特有の伝説のようです。小アジアのイオーニア系都市の一つコロポーンの建設者もネーレイダイであると伝えられていますが、コロポーンの詩人ミネムルモスによれば、コロポーンの建設者はアテーナイからではなく、ピュロスから直接小アジアへ向かったと伝えられています。

ネーレイダイのピュロスの気高い町から我らが船に乗ってアジアの心地よい土地に来た時、我らは圧倒的な力で美しいコロポーンに居座る痛ましい誇り(=レレゲス人を指す)を破壊し・・・・


タフツ大学の「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」の「エレゲイア詩とイアムボス詩、巻1」の「ミムネルモス」の項より

この建設者の名前は、アテーナイオスの「食卓の賢人たち」によれば「ピュロスのアンドライモン」だということです。このアンドライモンがネーレウスと系譜上でどのようにつながるのか、まだ私は、情報を見つけていません。