神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス(22):ミノア文明の盛期

 

  • BC 1628年頃にテーラ島の大噴火。
  • BC 1600年頃。ミノア文明の盛期。
  • BC 1450年頃、クレータ島の各地の宮殿が破壊され、クノッソスの宮殿だけが残る。たぶん、この頃ミュケーナイ文明のギリシア人がクノッソス宮殿を占拠。
  • BC 1350年頃。クノッソス宮殿の崩壊



BC 1628年頃にテーラ島の大噴火がありました。テーラ島はクレータ島の北100km以上離れたところにある島です。この時の大噴火は、島のほとんどを吹き飛ばす大爆発を伴いました。その爆発の前には丸い1つの島だったのが、大爆発の後、中心部が陥没して3つの島に分かれました。当然、大津波エーゲ海の広い範囲の沿岸を襲ったと推定されています。かつては、この噴火はBC 1500年頃と推定されていました。そして、BC 1450年頃にクレータ島の各地の宮殿が破壊され放棄されたことが分かっていたので、こんな推定がなされました。

もしミノア艦隊がクレータ島の北岸のどこかの港に碇泊していたとしたら、一撃の津波で壊滅してしまったにちがいない。(中略)そしてこの艦隊こそは、きわめて長期間にわたってクレータを外敵の侵略から守り、またクレータの人々をしてエーゲ海に君臨せしめた軍事力であったと考えられている。(中略)テーラの爆発の影響でミノア人の勢力が弱体化し、一世代ほど後には、クレータを武力によって攻撃することが可能と判断するに至った本土のギリシア人が、ミノア勢力の拠点をほとんどすべて破壊してしまい、ただ一つクノーソスの豪壮な王宮のみは、その一部を彼らの好みに合わせて改造した上で、これを占拠してしまったといったところであろうと想像される。


チャドウィック著「ミュケーナイ世界」より

しかし、テーラ島の噴火の時期がBC 1628年頃に引き上げられたので、この説は成り立たなくなりました。この新しい年代によれば、テーラ島の噴火ののち、クノッソスはむしろ繁栄していったのでした。なお、このBC 1628年という年代は、木の年輪の解析によって分かったのだそうです。というのは、噴火の火山灰が空中に拡散したしたことによって広い範囲で気温が下がり、それが木の年輪に現れているのだそうです。


さて、この噴火によってテーラ島の当時の町が火山灰の層の下に埋まってしまいました。この古代都市の遺跡は1967年になって発掘されました。遺跡から発見された壁画はミノア人の高度な美意識と技量を示しています。これらがBC 17世紀のものであるとは驚きます。


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このような繁栄は平和が保たれていたことの証拠でしょうか? 私はこの時代に、伝説のミーノース王の栄光を重ねてみたい気になります。

伝説によれば、最古の海軍を組織したのはミーノースである。かれは現在ギリシアにぞくする海の殆んど全域を制覇し、キュクラデス諸島の支配者となった。そしてカーリア人を駆逐し、自分の子供たちを指導的な地位につけて、島嶼の殆んど全部に最初の植民をおこなった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、4 久保正彰訳 から

右の民族の内カリア人は、島から大陸に渡ってきたものである。というのは、古くはミノス王(クレタの王)の支配下にあってレレゲス人と呼ばれ島に住んでいたのである。しかし彼らは、私が口碑を頼りにできるだけ過去に遡ってみた限りでも、貢物なるものは一切納めず、ミノス王の要求があれば、その度ごとに船の乗員を供給したのであった。ミノスは広大な地域を制圧し戦争では常勝の勢いであったから、カリア民族もこの時期においては、あらゆる民族の内で最もその名が轟いていたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、171 松平千秋訳 から


この頃のギリシア本土にはすでにギリシア人の祖先が住んでいたと推定されています。彼らはミノア文明の影響を大きく受けていましたが、それとは独自の特徴を持つミュケーナイ文明を作り出していました。

紀元前16世紀頃、ミノア文明はギリシア本土に著しい影響を及ぼすようになった。しかし軍事的な意味で本土を征服したとは考えられない。本土の人々は、この頃にはもうギリシア人と呼ぶことができようが、常に好戦的で、武器や狩猟を好む人々であった。これに対し、ミノア人は、天然の守りもない地に建てた開放的な宮殿に住んでいた。本土の文明が美術や工芸品の分野で洗練されたものとなったのは、すべてクレータの影響によるものらしい。


チャドウィック著「ミュケーナイ世界」より

線文字Aが解読されていれば、ミノア文明についてもっと分かることが多かったでしょうが、線文字Aがいまだに解読されていないために、どうしても記述が抽象的になってしまいます。AI技術が驚くほどのスピードで発達している今日、AIが線文字Aを解読するということになってくれないでしょうか?

クノッソス(21):ミノア人

ここからは視点を変えて、考古学によって古代のクノッソスやクレータ島についてどのようなことが分かってきたかを見ていきます。クレータ島の先史時代の文明を考古学ではミノア文明と呼んでいます。この名前は、伝説上のクレータ王ミーノースの名前に由来しています。


さて、クノッソス宮殿の一番古い部分はBC 1900年頃に建てられたと推定されています。ここから見ていきましょう。

  • BC 1900年頃にクノッソスの最初の宮殿が建てられる。
  • BC 1700年以前のいつかの時点で地震による宮殿崩壊。その後復旧。
  • BC 1628年頃にテーラ島の大噴火。
  • BC 1600年頃。ミノア文明の盛期。
  • BC 1450年頃、クレータ島の各地の宮殿が破壊され、クノッソスの宮殿だけが残る。たぶん、この頃ミュケーナイ文明のギリシア人がクノッソス宮殿を占拠。
  • BC 1350年頃。クノッソス宮殿の崩壊


ギリシア人がギリシア本土からやってきてクレータ島で支配権を握ったのはBC 1450年頃と推定されています。それ以前は別の民族がクレータ島の支配権を握っていました。この民族がギリシア人ではないことは確実なのですが、どういう民族であるか分かっていません。そのため、考古学では彼らのことを便宜的にミノア人と呼び、彼らの使っていた言語をミノア語と呼んでいます。ミノア語については線文字Aという文字体系が見つかっています。

(上:線文字A)


この線文字Aが解読されれば、ミノア語がどんな言語であるかが分かり、さらにそれがどんな民族であるか、あるいはどんな民族に近いかが分かるのですが、広く承認された解読がいまだにありません。ミノア語については、北西セム諸語に属する言語である、という説があります。北西セム諸語の中にはフェニキア語やヘブライ語があります。この説に魅力的なところは、ギリシア神話に登場するエウローペーの物語がそれを支持しているように見えるところです。ミーノースの母親エウローペーは「(1):エウローペー」で述べたようにフェニキアの王女だったからです。他にはヒッタイト語やルウィ語、あるいはそれに近い言語という説もあります。こちらはインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派に属します。


古典時代のギリシア人にとって身近なアナトリア語派の民族はカーリア人であり、身近な北西セム諸語の民族はフェニキアでした。古典時代のギリシアの歴史家トゥーキュディデースは、太古のエーゲ海の島々に住んでいた民族について以下のように述べているので、クレータ島の先住民族が北西セム諸語を話す民族か、あるいはアナトリア語派を話す民族である可能性は高いと思います。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人(=フェニキア人)であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦(=ペロポネーソス戦争[BC 431~404年]のこと)中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、8 から


しかしミノア語については、上記2つ以外にも説があります。たとえばティルセニア語族に属するという説があります。この語族にはイタリア北部の古代語であるエトルリア語や、エーゲ海北部の島レームノスに碑文が残っているレームノス語が、属します。しかし、これらの言語でさえ完全な解読までには至っていないので、そこに未解読のミノア語を属させるというのには無理がありそうに思えます。さらには、今まで知られているいかなる言語とも親族関係にない、という説もあります。結局のところどの説も有力にはなっていないようです。

それにしてもBC 1900年頃から宮殿を建設し始めたというのには驚きます。これは日本の歴史で考えれば、卑弥呼の時代より2100年以上前のことです。この宮殿は200年ほど経ったBC 1700年頃に一旦、破壊されたということです。

初期の宮殿は、中期ミノアII期の間に、BC 1700年頃以前のある時点で破壊されました。 それはほぼ確実に、クレータ島では起こりがちである地震による破壊です。BC 1650年頃に、それらはより大規模に再建され、第2宮殿の時代 (1650 年頃~1450 年頃) はミノアの繁栄の頂点を示しました。すべての宮殿には大きな中庭があり、公の儀式や見世物に使用されたと考えられます。居住区や保管室、行政中心が中庭の周囲に配置され、熟練した職人の作業場もありました。


英語版Wikipediaの「クノッソス」の項より

クノッソス(20):プラトーンが再構成した先史時代(4): 再びドーリス人について

話は、トロイア戦争後に進みます。

アテナイからの客人 きっとそれらの都市が、かのイリオン(トロイア)に向かって軍を勧めたのでしょうね、それも、おそらくは海路をも使って、その頃はすでに、誰もが、恐れることなく海を使っていたのですから。


レイニア そのように思われます。


アテナイからの客人 そしてアカイア人は、ほぼ10年とどまって、トロイアを荒廃させました。


レイニア そのとおりです。


アテナイからの客人 ところで、そのイリオンの包囲されていた期間が10年ともなると、その間に、包囲していた者それぞれの母国では、若者たちの内紛のために、多くの不幸がもち上がっていました。というのも若者たちは、兵士たちが自分の国や家に帰還したとき、立派なふさわしい仕かたで彼らを受けいれず、むしろその結果、おびただしい死刑や虐殺や追放が生じてくるありさまでした。その追放された者たちは、その後、名前をかえて再び戻ってきましたが、彼らは、アカイア人と呼ばれるかわりに、ドリア人(=ドーリス人)と呼ばれました。その理由は、追放されたその者たちを糾合したのが、ドリエウスという人だったからです。


プラトーン「法律」第3巻第4章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

この引用の最後に登場するドーリス人の起源についての話は一考に値します。というのは、広く流布された伝説にあるように(「(10):ドーリス人の来歴」を参照)ドーリス人が狭いドーリス地方を発祥とするならば、古典期に広い地域に住んでいたドーリス人の人口はどこからやってきたのかが疑問になるからです。ドリエウスという人物の実在は疑わしいですが、それまでギリシアで主要な種族であったアカイア人の一部がドーリス人になったと考えれば、人口の問題は解決します。


なおここには、伝説にあるようなヘーラクレースの子孫がドーリス人を引き連れてペロポネーソスに攻めて来た、という話は出てきません。しかし、のちの箇所でプラトーンは、この伝説を前提とするような内容を「アテーナイからの客人」に語らせています。ここから先の成り行きについては古代ギリシアの一般的な伝説に従ったようです。

アテナイからの客人 ではわたしたちは、頭の中で、かりにこういう時代に身を置いてみることにしましょう。ラケダイモン(=スパルタ)、アルゴス、それにメッセネが、それぞれの所有領もろとも、メギロスよ、あなたの祖先の支配下にすっかり置かれていた、そういう時代にです。だがその後、物語の伝えるところによると、彼らはその軍勢を三分し、アルゴス、メッセネ、ラケダイモン(=スパルタ)の三つの国家を建設する決心をもつに至りました。


メギロス そのとおりです。


アテナイからの客人 そしてテメノスがアルゴスの、クレスポンテスがメッセネの、プロクレスとエウリュステネスがラケダイモン(=スパルタ)の、それぞれ王となりました。


メギロス そのとおりですとも。


プラトーン「法律」第3巻第5章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

上で言われていることは「(10):ドーリス人の来歴」で述べたこととほぼ整合が取れています。そして、アルゴス王テーメノス、メッセーネー王クレスポンテース、スパルタ王プロクレースとエウリュステネースが皆ヘーラクレースの子孫であることをプラトーンが認めていたことは、以下の文章から分かります。

アテーナイからの客人 (中略)
当時の軍隊の編制は、三つの国(アルゴス、スパルタ、メッセーネー)に分割されながらも、ヘラクレスの子供にあたる兄弟の王のもとで、一つに統一されていたわけですが、その考案も整備もなかなか見事で、それは、かのトロイアに渡った軍の編制よりはるかにすぐれていると、思われていたようです。というのも、当時の人びとは、まず第一に、彼らのいただいているヘラクレスの子孫の方が、ペロプスの子孫より、支配者としての比較においてよりすぐれていると思っていたし、さらにまた、その軍隊の方が、トロイアに渡った軍隊より、勇気の点でまさっているとも思っていたのです。じじつ、前者の方が勝利を収めたのに対して、後者、つまり(トロイアに渡った)アカイア人たちは、前者によって、つまりドリア人(=ドーリス人)たちによって負かされたのですから。


プラトーン「法律」第3巻第6章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より


しかしプラトーンは、ドーリス人のクレータ島侵入の経緯について述べていません。ドーリス人がクレータを、そしてクノッソスを手に入れたのは、どういう経緯だったのでしょうか? それは、相変わらず謎のままです。

クノッソス(19):プラトーンが再構成した先史時代(3): トロイア戦争

プラトーントロイアの建設の伝説を取り上げ、それをもとに、人びとが山麓から平野に下りて来た時代があったとしています。

アテナイからの客人 それはホメロスが、二番目につづき、三番目のものはこのようにして生じたと言いながら、言い及んでいたものです。彼は、こんなふうにうたっています。

彼(ダルダノス)がダルダニアの都(=トロイアのこと)を建設せしは
言葉を話す人間たちの都
いまだ平野にきずかれず
人びとがなお、泉豊かなるイデの山麓に住みなしていた頃のこと

(中略)


アテナイからの客人 さて、わたしたちはこう伝えています。イリオン(トロイア)が建設されたのは、(人びとが)高い山から大きく美しい平野に下りてきた頃で、上流にあたるイデ山から発した多くの川の近くにもった、さほど高からぬ丘の頂きにおいてであったと。


レイニア たしかに、そういうふうに伝えられています。


アテナイからの客人 するとそれが行われたのは、あの洪水の後、ずいぶんと長い時がたってからのことだと、わたしたちは考えはしないでしょうか。


レイニア もとより、長い時がたってからのことです。


アテナイからの客人 というのも、彼らは、今しがた話された(大洪水による)滅亡のことなど、その頃はすっかり忘れていたように思われますからね。なにしろそんなふうに、高い山から流れてくるたくさんの川のほとりで、あろうことか、さほど高くもない丘の頂きを信頼して、都市を建設したというのですから。


レイニア ですから、あの不幸な出来事から、まことに長い時がたっていたのはいうまでもありません。


アテナイからの客人 それにまた、人間の数の増大に伴い、他にもたくさんの都市が、その頃はすでに建てられていたものと思われます。


レイニア もちろんです。


プラトーン「法律」第3巻第4章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より


そしてトロイア戦争に話を進めます。ただし神話にあるようにギリシアの神々が活躍することはなく、現実にあり得そうな事柄だけを抽出し、それを歴史として叙述しています。

アテナイからの客人 きっとそれらの都市が、かのイリオン(トロイア)に向かって軍を勧めたのでしょうね、それも、おそらくは海路をも使って、その頃はすでに、誰もが、恐れることなく海を使っていたのですから。


同上


トロイア戦争の原因としては、物語にあるような、美女として名高いスパルタの王妃ヘレネーをトロイアの王子パリスが奪い去った、といういかにも作り話めいた原因を語らず、抽象的ですが、もっと現実的な原因を語っています。

アテナイからの客人 (中略)異国が不正を働く例としては、たとえば、かつてイリオン(=トロイア)の住民たちが、ニノス王朝当時に存在していたアッシュリアの勢力を頼み、思いあがった気持から、あのトロイア戦争を招きよせるに到ったようなことが、それにあたるでしょう。


プラトーン「法律」第3巻第6章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

そしてトロイアとアッシュリア(=アッシリア)の関係について気になることを書いています。

というのもトロイアは、彼らの帝国(=アッシリア帝国)の一部だったからです。


同上

これは本当の話でしょうか? ここで現在の考古学の成果を参照すると、トロイアが栄えていた当時、確かにアッシリアという国は栄えていたのですが、トロイアの近くにはアッシリアに匹敵する大国であるヒッタイトが存在しており、トロイアアッシリアの一部だったとは考えられません。しかし、トロイアヒッタイトの一部、つまり属国だったということは、よりあり得そうです。ヒッタイトの当時の外交文書にはトロイアを指すと思われるウィルサという国が登場するからです(「トロイア(8):ヒッタイト王国の動乱」参照)。

(上:BC1200年頃の各王国の領域。ただしアカイアは単一の国ではなく、いくつかの国に分かれている。)

クノッソス(18):プラトーンが再構成した先史時代(2): 山麓に住む人々

プラトーンは、大洪水を生き延びた人々の子孫は技術をあまり持っていなかったし、小集団に分かれて暮らしていたと論じます。

アテナイからの客人 そこでわたしたちは、こんなふうに言ってもよいのではないでしょうか。こういう仕かたで生活を送ってきた多くの世代は、洪水以前の世代や今日の世代にくらべて、きっとその技術もつたなく、知識も乏しいものであったにちがいない。他の技術もさることながら、(中略)戦争の技術に関しても、乏しいものであったにちがいない。しかし他方、それだけにいっそう人が好く、勇気もあり、またいっそう思慮深く、あらゆる点ではるかに正しくもあったと。(中略)


アテナイからの客人 ところで、彼らは、立法者を必要とはしなかったし、またそのような時代にあっては、いまだ法律のようなものの生じてくる傾向も、見られなかったことでしょうね。というのも、周期の間のその時期に生まれた人びとは、いまだ文字も所有せず、むしろ、風習や、いわゆる祖先伝来の掟にしたがって、暮らしていたのですから。


レイニア おそらくそのとおりでしょう。


アテナイからの客人 だが、そのことがすでに、国制というものの一種のあり方となっています。
(中略)


アテナイからの客人 するとそういう国制は、滅亡につづく困窮状態のため、一軒一族ごとに分散してしまった者たちの中から、生じてきたのではないでしょうか。その国制にあっては、最長老の者が支配権を握っているのですが、それはその支配権を、父あるいは母から譲りうけたことによるのです。そしてそれ以外の者たちは、その長老に服従し、やがて鳥たちのように一つの集団をつくることになるのですが、それはつまり、家長の支配に従っているのであり、あらゆる王制のなかで、最も正当な王制の姿をとっているのです。


レイニア まったくそのとおりです。


プラトーン「法律」第3巻第3章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より


(上:ニダ高原。クレータ島)


やがて、個々の集団が集まって、より大きな集団を作るようになったとプラトーンは言います。

アテナイからの客人 さて、その次の段階では、もっと大勢の者たちがひとところに集合し、もっと大きな集団(ポリス)をつくります。そして、初めて山麓で農耕に向かい、また野獣たちを防ぐための防備の城壁として、粗石(あらいし)だけの一種の囲いをつくるのです。こうして今度は、共有の一つの大きな家をつくりあげるのですね。


アテナイからの客人 (中略)それぞれの小さな集団は、一族ごとに、最長老の支配者と若干の風習——それらは互いの暮し方が隔たっているために、それぞれに固有のものとなっていますが——をたずさえてきます。(中略)それぞれの部族は、自分の性向を、その子供や、子供の子供に刻みつけながら、今も言うように、それぞれ固有の掟をひっさげて、より大きな共同体のなかへはいってくることになるのです。(中略)


アテナイからの客人 さらに、それぞれの部族にとって、自分たちの掟は好ましく思われるが、他のものの掟は二次的なものになるのも、やむをえないことでしょう。


同上


いろいろな一族が集まったことにより、集団に共通する規範が必要になり、ここに立法者が必要になってくる、とプラトーンは話を進めます。対話編「法律」に登場する「アテーナイからの客人」はプラトーンの思想の代弁者としてよいでしょう。

アテナイからの客人 けだし、次の段階では、そのように集合した者たちは、とうぜん、自分たち共通の代表者を何人か選び出さざるをえません。その代表者たちは、あらゆる部族の風習に目を通し、そのうち彼ら自身に最も好ましく思われたものを、公共に役立つように、指導者たち、つまり王として民衆を導いている者に明示し、それを採用するように提言するのです。こうして、彼ら代表者たちは、立法者と呼ばれることになるでしょう。他方、代表者たちは、さきの指導者たちを支配者に任命し、複数の家父長制のなかから、一種の貴族制ないしは一種の王制をつくり上げ、国制のそうした推移をくぐって政(まつりごと)を行なってゆくことになるでしょう。


プラトーン「法律」第3巻第4章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より


ここまでは人類がまだ山麓に住んでいると考えられています。次に、人類が平野に下りる話が来ますが、プラトーンホメーロスの詩句をその過程の証拠として引用します。この話は次回に紹介します。

クノッソス(17):プラトーンが再構成した先史時代[1]:大洪水。

プラトーンの対話編「法律」から当時(BC 350年頃)のクノッソスの姿が少し見える箇所は、以下のところでしょう。

レイニア (中略)
 ほかでもありませんが、クレテの大部分が、ある植民を行なおうとくわだてており、事の世話を、クノソスの人びとに委託しているのです。ところが、そのクノソス政府がまた、わたしのほか九人の者に、それを委託したのです。同時に政府はまた、法律についても、もしこのクノソスの法律でわたしたちに気にいるものがあれば、それを取り入れて制定するように、また、たとえ他国の法律でも、それがすぐれていると思われれば、他国のものであることに頓着せず、それを取り入れて制定するように、命じているのです。
 こういうわけですから、さしあたり、わたしにもあなた方にもお役に立つように、このようにしてみましょう。これまで話された内容から選択して、いわば根本から建国するつもりで、言葉の上で国家を組み立ててみましょう。そうすれば、わたしたちにとっては、求めていることの吟味になるでしょうし、同時に、わたしはまたわたしなりに、その組み立て方を、おそらく将来の国家に役立てることもできるでしょう。


プラトーン「法律」第3巻第16章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

プラトーンの対話編はもちろんフィクションですから、この記述をどこまで信じてよいかは問題として残ります。とはいえ、この記述からはクレータ島の諸都市が植民事業の取りまとめを委託するほどには、クノッソスは有力な町であったことが伺われます。また、クノッソスは当時でも植民市を建設していたらしいことも伺われます。


ところで、プラトーンはこの「法律」のなかで、先史時代のギリシアの歴史を再構成しています。残念ながらそれはクノーソスに注目した歴史ではないのですが、これが私には興味深く思えたので、ここに紹介します。長いので要点だけの引用します。さらに何回かに分けて紹介します。再構成は、人類(少なくともギリシア人世界)が大洪水に見舞われ、文明が滅んでしまった、というところから始まります。

(上:大洪水。フィルギル・ゾリス作。オウィディウス『変身物語』第 1 巻の版画)

アテナイからの客人 さて、昔の物語には一種の真実があると、あなた方には思われますか。


レイニア いったいどのような物語でしょう。


アテナイからの客人 洪水、疫病、その他いろいろのことで、人間は幾度となく破滅し、その結果ごくわずかの人間の種族だけが生き残ったという物語です。


レイニア 誰にだって、そういう話ならどんなものでも、文句なしに信じられますよ。


アテナイからの客人 さあそれでは、たくさんのそうしたことがらの一例として、昔々洪水のために生じた滅亡を思いうかべてみようではありませんか。


プラトーン「法律」第3巻第1章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

人類(あるいは少なくとも古代のギリシア人)が大洪水によってそれまでの文明を失ってしまった、そして、それは何度も繰り返された、という考えをプラトーンは持っていたようです。対話編「ティマイオス」でもプラトーンはエジプトの神官に次のように語らせています。なお、この神官が語っている相手はアテーナイの政治家ソローンです。

つまり、一定の間隔の年月をへた後、疫病のように、天からの洪水が襲ってあなたがたの国(=ギリシア)の人々を押し流すので、文字を知らず、教養もない人々の他は誰も残らない。そんなわけで、あなたがたはたえず若返るのであって、この国(=エジプト)や、あなたがた自身の国(=ギリシア)で古い時代に起こったすべてのことを、なにも知らないのである。あきらかに、ソロンよ、あなたが、たった今、あなたの国の人々について物語った系図は、子供の話も同然なのだよ。というのは、第一に、あなたがたはたった一度の大洪水しか覚えていないけれど、昔は、それは何度も起こっているのだ。


エーベルハルト・ツァンガー著「天からの洪水」に引用されたプラトーンの対話編「ティマイオス」から

ここで「あなたがた(=ギリシア人)はたった一度の大洪水しか覚えていないけれど」とエジプトの神官が言っているのは、ギリシア神話に登場するデウカリオーンの洪水のことを指していると思われます。そこでデウカリオーンの洪水のことも少し紹介します。なお、ここに登場するデウカリオーンはミーノースの子のデウカリオーンとは別人です。

ゼウスが青銅時代の人間を滅ぼそうとした時に、(デウカリオーンの父の)プロメーテウスの言によってデウカリオーンは一つの箱舟を建造し、必要品を積み込んで、(デウカリオーンの妻の)ピュラーとともに乗り込んだ。ゼウスが空から大雨を降らしてヘラス(=ギリシア)の大部分の地を洪水で以て覆ったので、近くの高山に遁れた少数の者を除いては、すべての人間は滅んでしまった。(中略)デウカリオーンは九日九夜箱舟に乗って海上を漂い、パルナーッソスに流れついた。そこで雨がやんだので、箱から下りて避難の神ゼウスに犠牲を捧げた。


アポロドーロス「ギリシア神話」 第1巻第7章 高津春繁訳 より

驚くほど、旧約聖書に出てくる「ノアの箱舟」の物語に似ています。

クノッソス(16):ディクテオン洞窟

プラトーンの対話編「法律」は、次のように始まります。

アテナイからの客人 ねえ、あなた方、神さまですか、それとも誰か人間なのですか、あなた方のお国で法律制定の名誉をになっておられるのは。


レイニア 神さまです、あなた、それは神さまですよ、いちばん正しい言い方をすればね、わたしたちの国ではゼウスですが、この方の出身地ラケダイモン(スパルタ)では、人びとの説では、アポロンだと思います、そうではありませんか。


メギロス そうです。


アテナイからの客人 するとあなたは、ホメロスにならってこんなふうにおっしゃるのでしょうか、ミノスが、九年ごとに父ゼウスのもとを訪れて話合い、そのお言葉に従って、あなた方の国々に法律を制定したとでも。


レイニア ええ、わたしたちのもとでは、そのように伝えられています。それにまた、ミノスの兄弟であるラダマンテュス、――その名はあなた方もお聞きでしょうが――、彼は、この上なく正しい人であったと伝えられています。ところで、わたしたちクレテ人の言うところでは、この人がそうした称賛をかちえたというのも、当時いろいろな訴訟を正しく裁いたためだったということです。


アテナイからの客人 それはまた、いかにもゼウスの子にふさわしい、見事な名声ですね。ではお二人は、あなたにせよこの方にせよ、そのようなすぐれた法の習慣のなかで育ってこられたのですから、今日は道すがら、国制と法律について話したり聞いたりして時を過ごすのも、思うに、そうまずいことではありますまい。それにともかくも、聞くところでは、クノソスからゼウスの洞窟と神殿までの道のりは、どうしてなかなかのものだといいますし、なにしろこの息苦しい暑さですからね、おそらくは道々、高い樹々の間に、ひと休みする木蔭も見つかるでしょう。それに、わたしたちの年ともなれば、その木蔭でいく度か一休みし、話にまぎらわせて互いに元気づけ、そうやって気楽にその道をすっかり終えるのも、ふさわしいことでしょう。


プラトーン「法律」第1巻第1章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

この対話編の登場人物は「アテーナイからの客人」、クノッソスの人「クレイニアス」、スパルタの人「メギロス」の3名です。「アテーナイからの客人」の名前は最後まで明らかになりません。クレイニアスがクノッソス市民であることは、この対話編の別の箇所(第1巻第5章)で「クノソスの人であるこのクレイニアスも」と呼ばれていることから分かります。また、3名が老人であることは、上の引用の最後のほうで「わたしたちの年ともなれば」と書かれているところに、ほのめかされています。そして彼らはクノッソスから「ゼウスの洞窟」まで、そして「ゼウスの洞窟」の近くにある神殿までの長い道のりを歩くことになっていることが書かれています。何のために彼らは「ゼウスの洞窟」まで行くのでしょうか? おそらく参詣のためだと思われますが、はっきりとは書かれていません。


ここで、(クノッソスからは離れた場所になりますが)「ゼウスの洞窟」について見ていきます。太古のこと、神々の王クロノスは、自分の息子に王位を奪われるという神託を受けておりました。

彼は、大地と星散乱(ちりば)える天から聴いていたのだ
己れの息子によって いつの日か 撃ち殪(たお)される定めになっているのを
いかに己れが強くとも・・・・


ヘーシオドス「神統記」廣川洋一訳 より

そこで、彼は妻レアーが子供を生むと、その子供をすぐに飲み込んでしまいました。レアーはクロノスの所業を嘆き悲しみ、ゼウスを身ごもった時に何とか子供を助けたいと思いました。レアーは自分の両親ウーラノス(天)とガイア(大地)にこのことを相談しました。両親は彼女をクレータ島の町リュクトスに送り出しました。(リュクトスの地にはのちにスパルタ人が植民市を建設しました。)

すなわち 両親は 彼女を クレタの豊饒な地 リュクトスに送り遣った。
彼女が その子供らの末子として 大いなるゼウスを出産しようとなさっていた
そのときに。その子供(ゼウス)を 広大な大地(ガイア)は わが身に受けとられた
広いクレタの地で 養い育てるために。
大地は 脚迅(はや)い夜のまに 彼を運んで
かのリュクトスの地へ まずやって来た そして彼を腕に抱き
生い茂る樹木に覆われたアイガイオンの山中
聖い大地の奥処にある 峻厳な洞窟に 匿われた。


同上

「ゼウスの洞窟」というのは、幼子のゼウスが隠されて育てられたこの洞窟のことです。この洞窟は現在のディクテオン洞窟のことだとされています。ディクテオン洞窟は鍾乳洞で、ここでは先史時代の祭祀の跡が見つかっております。

(上:ディクテオン洞窟)