神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(18):ザンクレー奪取

アイアケスが僭主に復帰したのちのサモスの状況については、よく分かりません。ただ、アイアケスがサモスにやってくる前に亡命した人々がいたことをヘーロドトスは伝えています。

一方サモスでは、富裕な階級のものたちは、サモス軍の指揮官たちがペルシア軍に対してとった行動にあきたらず、海戦直後に評議した結果、独裁者アイアケスが国に乗り込んでくるに先立ち、海外へ移住し、決して留まってペルシア人とアイアケスに隷従するまいと決意したものである。
 というのはちょうど同じ頃、シケリアのザンクレ人がイオニアに使者を派遣してきて、自分たちがイオニア人の町の建設を計画しているカレ・アクテへくるようにイオニア人に勧誘してきたからである。このカレ・アクテと呼ばれる土地は、シケリア人(シケリア原住民)の住む地域で、ティレニア海に面するシケリアの海辺にある。
 さてイオニア人のうちこの勧誘に応じて植民に参加したのはサモス人だけで、ほかにミレトスの避難民が同行した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、22 から

上の引用で「シケリア」とあるのは今のシシリー島のことです。「ザンクレー」は今のメッシーナのことです。そこの僭主であるスキュテスが新しい町を建設するので、イオーニア人に植民の勧誘をしていたのでした。アイアケスに反対するサモス人たちはこの勧誘に応じようと考えたのでした。


 ところで、上の引用でアイアケスの支配を逃れようとしているのは「富裕な階級のものたち」であるとされています。ここから推測するに、アイアケスは元々、富裕な人々、おそらくは貴族に対して厳しい政策をとっていたのかもしれません。さらに想像すれば、貴族と平民の間の調停者の役割をはたしていたのではないでしょうか? たとえ独裁的な政治体制といえども、どこかに支持者層がなくては継続することはないと思います。彼の権力基盤は、この調停者という役割にあったのではないでしょうか?


 また、ラデーの海戦で、司令官の命令に反して戦線に留まったサモスの11隻の三段橈船の艦長たちは、この富裕な階級に属していたのではないか、とも想像します。


 さて、このサモスから亡命する富裕な階級の人々の話は「8:ポリュクラテース(2)」でご紹介した、僭主ポリュクラテースを逃れて亡命していったサモス人たちの話を思い出させます。そしてそのサモス人たちが、自分たちには何も危害を加えていないシプノス人たちを武力で脅して金を巻き上げたように、今回のサモス人亡命者たちも無道な行いをします。それともこの時代はこのような裏切りが横行していたのでしょうか?

 ところがこの移住の最中に次のような事件が偶発したのである。シケリアを目指すサモス人の一行がロクロイ・エピゼピュリオイに着いた頃、ザンクレ人はその王スキュテスの下に、シケリア人のある町を占領の目的で包囲していた。ところがレギオンの独裁者アナクシレオスというものがこうした事情を知り、当時ザンクレと不和の間柄であったので、サモス人と連絡をつけ、彼らが目指すカレ・アクテへゆく計画を放棄して、あたかも男子が不在のザンクレを占領すべきことを説いたのである。サモス人はアナクシレオスに説き落とされてザンクレを占領した・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻6、23 から

 このサモスからの亡命者たちは、自分たちを勧誘したザンクレーの僭主スキュテスを裏切って、ザンクレーを占領してしまいます。ところでザンクレーと不和であったというレーギオンは、ザンクレーとはメッシーナ海峡を挟んだ対岸、つまりイタリア半島側にありました。現在のレッジョ・カラブリアにあたります。

ザンクレ人は自国が占領されたことを知るとその救援に向い、彼らと同盟の関係にあったゲラの独裁者ヒッポクラテスに応援を求めた。ところがヒッポクラテスは軍を率いてザンクレ人に来援すると、ザンクレの独裁者スキュテスを町を喪失した責任者として捕縛し、その弟のピュトゲネスとともにイニュクスという町へ放逐してしまった。それからサモス人と話し合いをした結果誓約をとり交して、残余のザンクレ人を裏切って、彼らをサモス人に引き渡したのである。この裏切りの代償としては、市中にあるすべての動産および奴隷の半分と田畑の全部をヒッポクラテスが入手することが、サモス人によって確約されていたのであった。ヒッポクラテスはザンクレ市民の大部分を捕えて奴隷として自分が確保し、重だった市民300人を処刑すべくサモス人に引き渡した。ただしサモス人はその処刑を行わなかった。
(中略)
 ペルシアの難を免れたサモス人が、世にも美しいザンクレの町を労せずして手中におさめた経緯は右のとおりであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、23~24 から

さらに、ザンクレーと同盟関係にあったゲラの僭主ヒッポクラテスまでもザンクレーを裏切ってしまったのでした。そのおかげで、サモス人はザンクレーの町を手に入れることが出来たのでした。


この話はトゥーキュディデースの「戦史」にも記事があります。ただし、サモス人の運命についてはヘーロドトスと異なったことを書いています。

イタリア半島の)キューメーおよび(エウボイア島の)カルキスのそれぞれから、ペリエーレースとクラタイメネースがえらばれて、植民地の創設者となった。最初からのこのザンクレーという名称はシケロス人がつけたものであって、この地域が鎌のような形をしているところから生れたのである(シケロス語で鎌のことをザンクロンという)。だがその後、サモス人をはじめとするその他イオーニアからの諸邦人がペルシア人の侵攻を逃れてシケリアに渡来し、ザンクレー人を追放したかと思うと、間もなくかれらサモス人もレーギオンの独裁者アナクシラースの手で追放されてしまった。アナクシラースは自ら先導して諸部族混成の植民地をここに再建し、自分自身の祖先の故地の名にちなんでこの植民地をメッセーネーと改称した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6、4 から

トゥーキュディデースによれば、サモス人たちは一旦はザンクレーを手に入れたが、まもなくレーギオンの僭主アナクシラースによって追放された、ということです。このレーギオンの僭主アナクシラースというのは、ヘーロドトスの伝えるレーギオンの僭主アナクシレオスと同一人物でしょう。サモス人にザンクレーを占領するようにそそのかしたのがこの人物でした。そうすると、アナクシレオス(またはアナクシラース)は最初からサモス人を裏切るつもりで、彼らをそそのかしたのかもしれません。


一方、ザンクレーを追放されたスキュテスはペルシアに向い、ダーレイオス王の宮廷に身を寄せました。

 ザンクレの独裁者スキュテスはイニュクスを脱走してヒメラへゆき、そこからアジアへ渡り、東上してダレイオス王の許に身を寄せた。そしてダレイオスによって、ギリシアから王の許へきたもののうち誰よりも誠実な人間であると認められた。というのは、王の許可を得ていったんシケリアへ帰ったものの、再び王の許へ帰参したからで、彼はペルシアにあって何不自由なく暮し高齢に達してその生涯を終えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、24 から

このスキュテスは、ダーレイオスによってコース島の僭主に任命されたようです。というのはヘーロドトスの記述の中にスキュテスの子カドモスという人物がコース島の僭主として登場し、彼はその地位を父から受け継いだ、とあるからです。こうして、この話はコース島の話にもつながっていくのです。

このカドモスという人物はこれより先、コス島においてすでに安定していた独裁者の地位を父から受け継いでいたのであるが、これを脅かすような事情は何一つなかったのに、自分の正義感から自発的に政権をコス人の裁量に委ねてシケリアへ去ったのである。そしてこの地で、後に名称をメッセネと変えたザンクレの町をサモス人の手から奪取して、ここに住みついたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、164 から

スキュテスの子カドモスは、かつて父の領土だったザンクレーを「サモス人の手から」奪い返したというのです。つまりヘーロドトスは、この頃までザンクレーの町がサモス人によって占拠されていたと考えていたわけです。一方、トゥーキュディデースはそれ以前にサモス人はザンクレーから追放されたと考えていたわけです。私にはどちらが正しいのか分かりません。

サモス(17):ラデーの海戦

「イオーニアの反乱」の最後の決戦となるラデーの海戦が始まりました。

さてフェニキアの艦隊が攻撃に向ってくると、イオニア軍もこれに対抗すべく一列の縦隊となって船を進めた。両艦隊はやがて近接して交戦した(中略)。伝えられるところでは、サモス派遣部隊はこの時かねてアイアケスと打ち合せておいたとおり、帆を揚げて戦線を離脱しサモスへ帰航していったという。(中略)レスボス人も自分の隣りの部隊が逃走するのを見ると、このサモス軍にならい、同様にイオニア艦隊の大部分が同じ行動に出たのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、14 から


上の地図で見るとラデーからサモスまでの距離はほんの少しです。この地図には縮尺がついていませんが、Google Mapで見たところ10km未満でした。ただし、上の地図は当時の地形を復元した地図であって、現在ではラデー島のあたりはかなり陸地が迫ってきており、あるいはすでに大陸と地続きになっているかもしれません。一方、当時海に面していたミーレートスは現代では完全に海岸から離れてしまっています。


そんな戦場から近くに逃げただけでサモスの艦隊はペルシア艦隊から追撃されることはなかったのでした。サモスの港まで逃げてきた艦船に乗っていた人々は、10km未満の地点で起こっている戦闘について何を思ったことでしょう。これで自分たちの国の安泰が図られる、という思いもあったことでしょうし、一方でイオーニアの他の国々を見捨てたことに対して後ろめたい気持ちもあったことでしょう。そんないろいろな思いを巡らしている時に、サモスと同様に戦線を離脱したレスボス島の軍船が(おそらくミュティレーネーを主力とする艦隊が)、自分たちの目の前を通過し、サモス島の東を通ってレスボス島に引き返していくのが、見えたのでした。

(かつてのラデー島の近くの風景)


その中にあって、サモス艦隊の一部の艦船は、戦線を離脱せよというサモス艦隊の司令官の命令に従わず、戦線に踏みとどまることをよしとしたのでした。

ただし十一隻の三段橈船だけは、その艦長が司令官の命に服せず踏みとどまって海戦を交えた。この残留隊の行為はまことに見事であったというので、サモスの当局はこの行動を顕彰するため、石柱に彼らの名を父の名とともに刻むという栄誉を与えた。この石柱は今もサモスのアゴラにある。


ヘロドトス著「歴史」巻6、14 から


それでもサモスとレスボスの艦隊が離脱したことはイオーニア連合軍にとっては大きな痛手でした。残った艦隊の中で、キオスポーカイアの派遣した艦隊は見事な戦闘を示したということです。

 踏みとどまって海戦を交えた部隊の内、キオス軍は卑怯な振舞いをいさぎよしとせず目覚ましい働きを示しただけに、痛手を蒙ることも最もはなはだしかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、15 から

 一方ポカイア人ディオニュシオスは、イオニア軍の壊滅を知るや、敵船三隻を捕獲し、ポカイアもやがて他のイオニア諸国とともに奴隷化されることを十分承知していたので、もはやポカイアへは戻らず、そのまますぐにフェニキアに航行し、ここでフェニキアの商船数隻を撃沈して多額の金品を入手するとシケリアへ向かった。そしてここを根拠地として海賊となったのであるが、その襲撃はもっぱらカルタゴ人、エトルリア人に向けられ、決してギリシア人を襲うことはなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、17 から


しかし、最終的にはイオーニアの海軍は壊滅を免れませんでした。

 ペルシア軍は右の海戦でイオニア軍を破るや、海陸両面からミレトスを包囲し、城壁を掘りくずし、またあらゆる攻城用の兵器を駆使して攻め立て、アリスタゴラスの反乱以来六年目にとうとう完全にミレトスを攻略した。ペルシア軍は全市民を奴隷にした(後略)。


ヘロドトス著「歴史」巻6、18 から

 こうしてミレトスの町から、ミレトス市民は一掃されてしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、22 から


このサモスの裏切りによって、サモスはペルシアからの報復を免れることが出来ました。ただし、追放した僭主アイアケスを再び、支配者として迎えることを甘受しなければなりませんでした。

 ミレトスをめぐって起った海戦の後、フェニキア人はペルシア側の命により、シュロソンの子アイアケスを、味方を利して大功のあった殊勲者であったというので、サモスへ帰し復権せしめた。またダレイオスに叛いた諸市の内サモスのみは、海戦に際して艦船を離脱させた功により、その町も聖域も焼却を免れた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、25 から


では、その他のイオーニア都市はどうなったかといいますと、ペルシアから厳しい報復を受けたのでした。

 ペルシアの艦隊はミレトス附近で冬を過ごしたが、あくる年になって出航すると、キオス、レスボス、テネドスなど、大陸に近接した諸島を易々と占領した。(中略)
 この時ペルシアの諸将は、ペルシア軍に反抗の陣を構えたイオニア人に向って彼らが放った威嚇をその言葉どおり実行したのであった。というのは、彼らはイオニア諸市を制圧するや、特に美貌の少年を選んで去勢し男子の性を奪い、また器量のすぐれた娘を親許からひき離して大王の宮殿へ送った。右のほか、さらに各都市に火を放ち聖域もろともに焼き払ったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、31、32 から


イオーニアの反乱の結果は以上のようなものでした。

サモス(16):イオーニアの反乱


BC 498年、サモスとは目と鼻の先にある、大陸側の都市ミーレートスがペルシアに対して反乱を起しました。反乱の首謀者はミーレートスの僭主アリスタゴラスで、彼は本心はともかくミーレートスに民主政を宣言し、他の都市に対しても、ペルシアに協力する僭主を追放して民主政を敷くように呼びかけました。するとサモスではたちまち民主派の人びとがそれに呼応したので、身の危険を感じたサモスの僭主アイアケスはサモスを脱出して、ペルシア側に亡命しました。


 この反乱はカリアやキュプロスにも拡大し、キュプロスでのペルシア海軍との戦いではサモスの派遣した海軍が一番活躍したのでした。しかしキュプロスは最終的にはペルシア軍に占領されてしまいます。反乱は何年も続き、BC 494年、態勢を立て直したペルシア側が反乱の震源地であるミーレートスを占領しようとして海陸の大軍を派遣する事態になりました。

ミレトスには海陸からの大軍が迫っていた。ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトス以外の諸都市は二の次にして、ひたすらミレトスに向って進撃していたのである。海軍のうち最も戦意盛んであったのはフェニキア人であったが、彼らとともに最近征服されたキュプロスからの派遣軍やキリキア人、さらにはエジプト人も攻撃に加わった。
 ペルシア軍がミレトスをはじめとするイオニア各地に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを議決した。ラデとはミレトスの町の前面に浮ぶ小島である。


ヘロドトス著「歴史」巻6、6~7 から

 サモスはラデーに60隻の軍船を派遣しました。集結したイオーニアの軍船は総計353隻でした。一番多く船を出したのはキオスで100隻で、ミーレートスも80隻を出しました。一方ペルシア側軍船は600隻でしたが、イオーニア側の軍船の数を知って動揺しました。

ペルシアの諸将はイオニア軍艦船の数を知って、これを制圧することができぬのではないかと危惧を懐くにいたった。海上を制することができなければ、ミレトスを攻略することはできぬであろうし、かくてはダレイオスの不興を買うことになろうと恐れたのである。彼らはあれこれと思いめぐらした挙句、イオニアの独裁者たちを招集することにした。これはミレトスアリスタゴラスによって政権の座を追われペルシアに亡命したものたちで、たまたまこの時ミレトスの攻撃に参加していたのであったが、このものたちのうち居合せたものを召集して次のようにいった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、9 から

この中にはサモスから逃げてきた元僭主のアイアケスもいました。

イオニア人諸君、今こそ諸君各自がペルシア王家に対する諸君の忠誠心を表わす時である。諸君はおのおの自国民を連合軍から離脱させるよう計らってもらいたい。その際確約事項として、われらは決して反乱の罪を問うて処罰を加えることはせぬし、聖所や個人の住居を焼くこともない、またこれまで以上に虐待することもしないと通告せられたい。しかし、もし彼らがこれに従わずあくまで戦争に訴えようとするならば、必ずや彼らにふりかかるべき災厄の数々を挙げて威嚇してやられるがよい。すなわち、敗戦の暁には彼らは奴隷となり、男児は去勢され、女児はバクトリアへ移される。またその国土は没収して他民族に与えられる、ということじゃ。」
 ペルシアの司令官たちの右の言葉に応じて、イオニアの独裁者たちはこの趣旨を伝える使者を夜のうちにおのおのの母国へ送った。しかしこれらの通報を受けたイオニア各市では、相変らず情勢判断の誤りに気付かず、裏切りに踏み切ろうとしなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、9~10 から

アイアケスもラデーに待機しているサモス艦隊に使者を送りました。この時点でサモス派遣軍の指揮者たちはペルシア側に寝返るつもりはありませんでした。しかし、それから数日後、彼らは寝返りを決意します。それには次のような事情がありました。


 ポーカイアの司令官ディオニュシオスはイオーニア艦隊に海戦の訓練を積ませることが必須であると提言し、その意見がイオーニア海軍の指揮官たちの会議で通りました。そこでディオニュシオスはペルシア艦隊が包囲している中で、海戦の訓練を指導しました。それは厳しい訓練でした。最初の7日間はイオーニア人たちはディオニュシオスの指示に従っていたのですが、8日目からは訓練が厳しすぎると不平を述べて、彼の指示に従わなくなってしまったのです。

 さてサモス派遣部隊の指揮官たちは、こうしたイオニア人の態(てい)たらくを見て、シュロソンの子アイアケスが以前ペルシア方の要求に従って申し送ってきた提案、すなわちイオニア軍との同盟を破棄せよという要求を受け入れることに決したのである。サモス人がこの提案の受諾にふみ切ったのは、一つにはイオニア軍の綱紀がはなはだしく紊乱しているのを眼にしたからでもあるが、またイオニア軍がとうてい大王の戦力を破り得ぬと判断したことにもよる。よしや現在の水軍を破り得たとしても、必ずやダレイオスはこれに五倍する大艦隊を改めて派遣するに相違ないと彼らは十分承知していたからである。そこでイオニア人が軍律に従って精励するのを拒否するのを見るや、これを口実にして、自国の聖所や個人の財産の保全を計るのが有利と判断したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、13 から


サモス(15):スキュティア遠征への従軍

 BC513年のこと、ペルシア王ダーレイオスはスキュティア(現在のウクライナ南部)へ攻め込みました。サモスも海軍の提供を要求され、僭主アイアケス自身がサモスの海軍を率いて従軍しました。

バビロンの占領後、ダレイオスは自らスキュタイ人遠征に向った。今やアジアは人口も豊かに、国庫に集まる収入は莫大な額に上ったので、ダレイオスはスキュタイ人に報復を思い立ったのである。それというのも先に侵害したのはスキュタイの方で、彼らはペルシア人の進攻以前にメディアに進入し、抵抗するメディア人を撃破したことがあったからである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、1 から

 スキュタイ人がメディアに進攻したころペルシアはメディアの支配下にあったのであり、そのメディアを征服したのがペルシアなのですから、ペルシアの王ダーレイオスがスキュタイに報復を唱えるのは単なる言いがかりなのですが、言いがかりでもそれを理由にしたのです。


 ところで、スキュタイ人の領土は黒海の沿岸で、ドナウ河の北側に位置しました。そこでダーレイオスは小アジアからボスポロス海峡を渡り、そこから北上してドナウ河に渡る道筋を計画しました。まず、大軍勢をヨーロッパ側に渡すためにボスポロス海峡に橋を架ける必要があります。この橋を作ったのがサモスの人マンドロクレスでした。彼は船を並べてその上に板を渡した船橋を建造したのでした。ポリュクラテースの頃からサモスはこういう土木的な技術が得意だったようです。

 船橋の出来栄えに満足したダレイオスは、その工事の棟梁であるサモス人マンドロクレスに莫大な恩賞を与えた。マンドロクレスは授かった恩賞の初物を供える趣旨で、ボスポロスの橋の全貌と特別席に坐ったダレイオス王の姿、それに王の軍が橋を渡る有様を描かせた絵を、次のような銘文とともにヘラの社殿に奉納した。


  魚豊かなるボスポロスに橋かけ渡したるマンドロクレス、
  船橋を記念してヘラの女神に捧げたてまつる。
  ダレイオス王が旨のまにまに工を終え、
  自らは栄冠を戴き、サモス人にはその誉を高からしめし者。


 これが架橋を完成させた人物の記念物であった・・・・。


ヘロドトス著「歴史」巻4、88 から

 上の引用で「ヘラの社殿に奉納した」とありますが、これはやはりサモス島のヘーラー神殿のことでしょう。サモス人にとってはやはりヘーラー神殿がとても大切なのでした。

 さて、ボスポロス海峡を渡ったら次はドナウ河です。この時代、ギリシア人たちはドナウ河のことをイストロス河と呼んでいました。

 ダレイオスはマンドロクレスに恩賞を与えた後、ヨーロッパに渡ったが、イオニア人には黒海内のイストロス河まで航行し、イストロスに達したならばこの河に架橋しつつ自分の到着を待つように指令しておいた。水軍を率いていたのはイオニア人、アイオリス人、ヘレスポントス人たちであったからであるが、かくて水軍は「青黒岩」を通り抜けてイストロス河目指して直航し、さらに海から二日間河を遡航して、イストロスの河口が幾つにも分岐している河の頸部(狭隘部)に架橋を始めた。


ヘロドトス著「歴史」巻4、89 から

 イストロス河に架けた橋も船橋でした。ヘーロドトスは工事の指揮者の名前を書いていませんが、やはりこの橋もマンドロクレスの指揮の下に作られたのではないでしょうか。

 さて、ダーレイオスとその麾下の陸上部隊がイストロス河畔に到着し、全軍が渡河を完了したのをダーレイオスが見届けると、ダーレイオスはイオーニア人部隊に60日間この橋を守るように命令しました。これはスキュティアを征服したあとの帰路を確保するためです。そこでイオーニア、アイオリス、ヘレースポントスの海軍はここドナウ河の船橋付近に留まっていました。


 ダーレイオスの軍隊がスキュティア領内に進んだのち60日間が過ぎたのち、スキュタイ人たちが馬でやってきて橋を破壊するように言いました。スキュタイ人は遊牧民族で定住地を持たず常に移動しているためにペルシアの大軍はスキュタイ人を追跡しているうちに疲れてしまい、退却し始めていたのでした。そこで、スキュタイ人の一隊がイオーニア人たちのところにやってきて、ペルシア軍の退路を断ってしまうために橋の破壊を依頼したのでした。このスキュタイ人の提案に応じるかどうか、イオーニアの僭主たちの間で議論が始まりました。スキュタイ人の言う通り、橋を破壊してイオーニアを解放しようと主張したのはヘレースポントスにある町ケルソネーソスの僭主ミルティアデースでした。あくまでもペルシア軍の帰りを待つべきだと主張したのはミーレートスの僭主ヒスティアイオスでした。

自分たちがそれぞれ自国の独裁権を握っておられるのはダレイオスのお陰である、ダレイオスの勢力が失墜すれば、自分もミレトスを支配することができなくなるであろうし、他の者たちも一人としてその地位を保つことはできまい。どの町も独裁制より民主制を望むに相違ないからだ、というのが彼の主張であった。
 ヒスティアイオスがこの意見を述べると、それまではミルティアデスの説に賛成であった全員がたちまちヒスティアイオスの意見に傾いてしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻4、137 から

 サモスの僭主アイアケスもヒスティアイオスの意見に賛成した一人でした。結局、イオーニア人たちは船橋を破壊しなかったので、退却するペルシア軍はドナウ河を渡り、スキュティアから退却することが出来ました。こうしてペルシアのイオーニア支配は続くことになったのでした。

サモス(14):ペルシア軍侵攻


 ペルシアの将軍オタネスは、シュロソーンをサモスの支配者に据えるために艦隊を率いてサモス島に侵攻しました。

 さてペルシア軍がシュロソンの復帰を目指してサモスに到着すると、これに刃向う者は一人もなく、マイアンドリオス自身もその一党も協定を結べば島から退去する用意があると告げた。オタネスはこの申し出を容れ協定を結んだので、ペルシア軍の首脳たちは、アクロポリスに面して椅子を並べさせ、それに着座していた。


ヘロドトス著「歴史」巻3、144 から

 これで、シュロソーンがペルシア王ダーレイオスに願ったように「サモスを流血の惨事も起さず、市民を奴隷にするようなこともなく」手に入れることが実現しそうに見えました。しかし、そうはなりませんでした。それは、以下のようなわけでした。

 さて独裁者となっていたマイアンドリオスには、名をカリラオスという、やや乱心気味の弟があったが、何かの罪を犯して地下牢に幽閉されていた。折しも事の成行きを耳にした彼は獄舎から外を覗き見たが、ペルシア人たちが長閑やかに坐っているのを眼にとめると、大声を立ててマイアンドリオスに会いたいといった。マイアンドリオスは彼の求めに応じて、家来に命じて弟の縛めを解いて自分の許へ連れて来させた。連れて来られるや否や、カリラオスは兄を罵り咎め、次のようにいいながら兄を説得してペルシア軍に攻撃を加えさせようとした。
「兄者は世界一の臆病者じゃ。そなたは自分の弟で、しかも縛られるような悪事は何一つ犯しておらぬわしを縛って、地下牢にまで押しこめながら、ペルシア人に国を追われ放浪の身におとされようというのに、仕返しをする勇気もないのか。しかも打ち破るにはいとも易い相手であるのにな。しかしそなたがどうしてもペルシア人が恐ろしいというのなら、わしに傭兵部隊をかしてくれ。わしが彼らにこの国へ押しかけた過ちを思い知らせてやろう。そなたの身については、無事に島から抜けられるように計らって進ぜよう。」
 カリラオスがこのようにいうと、マイアンドリオスは弟の申し出を容れたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、145、146 から

 ヘーロドトスは、マイアンドリオスが弟のカリラオスにペルシア軍への攻撃を許した理由をこう記しています。

私の思うには、自分の兵力が大王の兵力に優ると考えるような無分別を彼が起こしたというのではなく、むしろシュロソンが労せずして町を無傷のまま手中にすることを妬んだからであったのであろう。そこで彼はペルシア人を怒らせてサモスの国力をできる限り弱めた上、これを引き渡したいと考えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、146 から

 しかし私にはそうは思えません。マイアンドリオスは「サモス(12):マイアンドリオス」でお話したように、元々は僭主政より民主政をよしとするような人間でした。そのような人間がペルシア人を怒らせてサモス人を犠牲にするようなことを考えるだろうかと思うからです。ではなぜ、カリラオスがペルシア軍を攻撃したのか、と言われれば、分からない、というしかありません。カリラオスは元々幽閉されてはおらず、兄の意志とは無関係に傭兵を率いたのかもしれません。


 とにかくカリラオスは傭兵部隊を使って、もう停戦協定が成立していると信じていたペルシア人たちに襲いかかり、ペルシアの高官たちを殺したのでした。これを見てペルシア軍はすぐに反撃を始めました。一方、マイアンドリオスは、以前作らせてあった秘密の抜け穴を通って海岸に出て、そこから船でサモス島を脱出しました。この抜け穴は「ポリュクラテース(1)」でご紹介したエウパリーノスのトンネルと同じ技術を使って作られたものでしょう。

 ペルシア軍がさんざんな目に遭ったのを見た指揮官のオタネスは、出発の時にダレイオスから受けた指令――サモス市民は一人といえども殺さず奴隷にもせず、島を無傷のままシュロソンに返してやれという指令を故意に忘れたことにして、捕えたものは大人子供の別なくことごとく殺せと麾下部隊に命を下した。(中略)
 ペルシア軍はサモス島を「曳き綱式」に掃蕩した後、無人となった島をシュロソンに引き渡した。


ヘロドトス著「歴史」巻3、147~149 から

無人となった島」を引き渡されてもシュロソーンはうれしくとも何ともなかったことでしょう。無人というのは誇張だと思います。上の引用で「サモス島を『曳き綱式』に掃蕩した」とありますが、ヘーロドトスは『曳き綱式』について別の箇所で以下のように説明しています。

曳き綱式の掃蕩というのは次のようにして行なうのである。兵士が一人ずつ手をつないで、北の海岸から南岸までを貫き、こうして住民を借り出しながら全島を掃蕩するのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、31 から

ところが、サモス島には標高1000メートルを超える山がいくつもあるのです。「曳き綱式掃蕩」など無理な話でしょう。ただ、多くの人びとが殺されたのは事実だったようです。

(サモス島の最高峰 ケルキース山 1,433m)


その後、シュロソーンは無事に僭主の地位を保ったようで、彼の息子アイアケスもサモスの僭主になりました。こうしてサモスは海上帝国の夢も消え、ペルシアの支配下に入ったのでした。一方、逃げたマイアンドリオスはスパルタに行って、自分のサモスへの復帰の援助を頼んだのですが、スパルタ政府に断られて追放処分を受けました。その後マイアンドリオスがどうしたのか、ヘーロドトスは記しておりません。

サモス(13):シュロソーン

 シュロソーンはポリュクラテースの弟でした。彼は兄ポリュクラテースがサモスの政権を奪取しようとした時にもう一人の兄とともに協力したのでした。しかし、その後まもなくポリュクラテースによって追放されてしまいます。追放されたのはましな方で、もう一人の兄であるパンタグノスはポリュクラテースによって殺されてしまいました。



 さて、このシュロソーンが亡命生活を送っている間に、たまたまエジプトの町メンピスに滞在することがありました。その頃、カンビュセース王率いるペルシアの軍隊がエジプトに侵攻しており、メンピスはペルシア軍の占領下にありました。この頃、多くのギリシア人がエンジプトにいたそうです。ある者は商用で、またある者はペルシア軍に従軍してエジプトにいました。また、単に見物のためにエジプトに行ったギリシア人もいました。シュロソーンもその見物組の一人でした。
 シュロソーンはその時、燃えるような緋色の外套をまとってメンピスの広場に立っていました。すると、その外套を欲しいと言って近づいてきたペルシア人がいました。身なりからすると身分の高い人のようです。その人はどうしてもその外套が欲しいので、いくらなら売ってくれるのか、シュロソーンに聞きました。するとシュロソーンは、なぜか彼にこの外套を譲ろうという気になったのでした。

シュロソンは、一種の霊感に動かされたというのか、次のようにいった。
「私はこれをどんな値段でも売るつもりはないが、どうしてもあなたのものにならねばならぬというのであれば、無料で差し上げよう。」


ヘロドトス著「歴史」巻3、139 から

 そのペルシア人はその言葉に感謝して、その外套をもらったのでした。


 ところが、実はそのペルシア人が、その後ペルシア国王の地位に就くことになったダーレイオスだったのでした。当時はダーレイオスに王位が来ることなど誰も予想せず、彼自身も予想していなかったことでしょう。当時彼はカンビュセース王の親衛隊の一人にしかすぎませんでした。

 当時シュロソンは、自分のお人好しのためにみすみす外套をふいにしたと考えていた。しかし時は移りカンビュセスが死に、(中略)ダレイオスが王位に就くに及んで、シュロソンはペルシアの王となった人物が、かつて自分がエジプトで乞われるままに外套を与えた男にほかならぬことを知ったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、140 から

 シュロソーンにチャンスが到来しました。彼はペルシア王国の首都スーサまで行って、このコネを利用しようとしました。


そこで彼はスーサに上ると、王宮の門前に坐って自分はダレイオスの恩人であるといった。門衛がそれを聞いてこれを王に伝えると、ダレイオスは不思議に思い門衛にいうのは、
「王になってまだ間もないわしが、恩義を感ぜねばならぬ恩人とは、一体どこのギリシア人であろう。これまでまだ、そのようなもので都に上ってきたのはほとんど一人もおらぬし、またわしがギリシア人から恩義を蒙っているなどということは、先ずないといってよい。しかしともかくその男を中へ連れてくるがよい。一体なにが目当てでそのようなことを申しているのか見てみよう。」
 やがて門衛がシュロソンを連れてくると、王の前に立ったシュロソンに、通訳たちが彼は何者で、王の恩人であるというのは一体なにをしたからなのか、と訊ねた。そこでシュロソンは外套にまつわる一部始終を語り、自分こそ外套を与えた主であると告げた。これに対してダレイオスが答えていうには、
「おお、わしがまだ何の力もなかった時に贈物をしてくれたのはそなたであったか。まことに世にも稀な気前のよい男じゃ。あの時そなたがくれたものはとるに足らぬものではあったが、その好意は現在のわしが誰からか膨大な贈物をうける場合と少しも変わらぬぞ。そなたがヒュスタスペスの子ダレイオスに親切を尽したことを悔いることがないように、あの時の礼としてそなたには量り切れぬほどの金銀を与えよう。」


ヘロドトス著「歴史」巻3、140 から



 ここでシュロソーンはすかさず、自分の意とするところを述べました。

「王よ、私は金も銀も要りませぬから、どうか祖国サモスを私の手にとり戻して頂きたい。サモスは兄ポリュクラテスがオロイテスの手にかかって世を去った今、われらが召使っておりました奴隷めがその手中に握っておりますが、どうかサモスを流血の惨事も起さず、市民を奴隷にするようなこともなく、私にお与えください。」


ヘロドトス著「歴史」巻3、140 から

 ここでシュロソーンが「われらが召使っておりました奴隷めが」と言っているのはマイアンドリオスのことです。マイアンドリオスの家柄はあまりよくなかったようですが、奴隷ということはなかったでしょう。シュロソーンはマイアンドリオスのことをわざと地位の低い者のように言って、サモスを統治しているのが不当であることを強調したようです。また「サモスを流血の惨事も起さず、市民を奴隷にするようなこともなく」と言っていることに留意して下さい。シュロソーンは、サモスをなるべく無傷のまま引き継ぎたかったのです。しかし、あとで述べるようにこのシュロソーンの願いは叶いませんでした。


 それはともかくダーレイオス王は、さっそく臣下のオタネスに軍を与え、シュロソーンの願いを叶えてやるように命じたのでした。

サモス(12):マイアンドリオス

 さて、話をポリュクラテースが謀殺された時点に戻します。ポリュクラテースを謀殺したオロイテスはその後サモス島を攻めたかといいますと、攻めてはおりません。それはなぜかといいますと、ちょうどこの頃、ペルシア王カンビュセースが遠征中のエジプトで急死したという、ペルシア王国にとっての大事件が起きたからです。カンビュセース死後、ペルシア王位をめぐっての争いが始まりました。この時正式な王位継承者がいたのかどうか不明です。最終的には傍系の王族であったダーレイオスが王位を手に入れました。そのダーレイオスによってオロイテスは殺されてしまいます。とはいっても、オロイテスがこの王位争いに巻き込まれただけの被害者だったかどうか分かりません。この争乱の最中にオロイテスは、かつて自分を罵ったライバルの総督ミトロバテスを殺しています。オロイテスは、サモス占領のことは一旦、脇に置いておいて、この動乱で自分の地位を上げようと積極的に動いたのでしょう。そしてその過程でダーレイオスと対立し、ダーレイオスによって殺された、というのが真相ではないでしょうか。



 こうしたわけでポリュクラテースが殺されたあとも、サモスはペルシアから攻撃されることはありませんでした。ポリュクラテースペルシア人オロイテスの許に向った時、サモスの統治を自分の片腕として信頼していたマイアンドリオスに託していました。このマイアンドリオスがサモスを統治していたわけですが、そこにポリュクラテースの死の知らせが届きました。このマイアンドリオスはポリュクラテースに仕えていたにもかかわらず、実は僭主政に反対だったのでした。そこで、彼はポリュクラテースの死をゼウス神の恩恵と考えて、ゼウス・エレウテリオス(解放の神ゼウス)の祭壇を建て、そのまわりに聖域を設けたのでした。そして市民を集めて、彼らの前でサモスが民主政に移行することを宣言しました。

「諸君も知っているように、ポリュクラテスの王笏とすべての権力は私に委任されており、現在私には諸君を統治することもできるのだ。しかし私は、他人がすれば自分が咎めるようなことは極力しないつもりでいる。実際自分と同等の人間の上に独裁者として君臨したポリュクラテスのやり方は私の好まなかったところで、ポリュクラテスならずとも同様のことをする者は何人といれども私の気には入らぬのだ。さてポリュクラテスが定業を果して世を去った今、私は政権を国民全部の手に委ね、諸君のために万民同権(イソノミア)の原則を宣言する。しかしながら私は次のことだけは、私の特権として要求してもよいと思う。すなわちポリュクラテスの資産の内から六タラントンを私に与えること、さらにはゼウス・エレウテリオス(解放の神ゼウス)に仕える祭司の職を、私のみならず私の代々の子孫のために要求する。この神の社を建立したのは私であり、私が諸君に自由を与えるのであるからだ。」


ヘロドトス著「歴史」巻3、142 から

 マイアンドリオスのこの提案を市民が素直に賛成すればよかったのですが、テレサルコスという市民の中でも名望の高い者が、こう言ったのでした。

「実際素姓も卑しく疫病神のようなお前に、われわれを治める資格などあるものか。それよりもお前が管理している資財の会計報告をしたらどうだ。」


ヘロドトス著「歴史」巻3、142 から

 その言い方にマイアンドリオスは民衆扇動者の匂いを嗅ぎつけたのでした。そしてたとえ民主政を施行したとしてもこういう民衆扇動家によって再び僭主政が樹立されるに違いない、それならばいっそ自分が政権を維持して正義を行う方がましではないか、とマイアンドリオスは考えたのでした。

 そこでマイアンドリオスも、よしや自分が政権を放棄しても、必ずや自分の代りに他の者が独裁者となるであろうと悟り、かくてもはや政権を手離すことは考えず、城中に帰ると財務の説明をすると称して(自分の反対者を)一人ずつ個別に呼び、捕えて監禁してしまった。これらの者が監禁された後、マイアンドリオスは病に臥すことになった。すると彼の弟でリュカレトスなるものが、兄は死ぬものと思い、自分がサモスの政権を獲得するのを容易にする目的で、監禁中の者たちをことごとく殺してしまった。つまりこれは、この者たちがどうやら自由の権利を望まなかった報いであったようである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、143 から

 このマイアンドリオスのことをヘーロドトスは「自ら正義の典型たるべく志しながら、それを果たせなかった人物」と評しています。古代ギリシアの政治闘争にはなかなか激しいものがありますが、この話は現代に通じるような、政治の難しさを示しているように思えます。