神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(14):ペルシア軍侵攻


 ペルシアの将軍オタネスは、シュロソーンをサモスの支配者に据えるために艦隊を率いてサモス島に侵攻しました。

 さてペルシア軍がシュロソンの復帰を目指してサモスに到着すると、これに刃向う者は一人もなく、マイアンドリオス自身もその一党も協定を結べば島から退去する用意があると告げた。オタネスはこの申し出を容れ協定を結んだので、ペルシア軍の首脳たちは、アクロポリスに面して椅子を並べさせ、それに着座していた。


ヘロドトス著「歴史」巻3、144 から

 これで、シュロソーンがペルシア王ダーレイオスに願ったように「サモスを流血の惨事も起さず、市民を奴隷にするようなこともなく」手に入れることが実現しそうに見えました。しかし、そうはなりませんでした。それは、以下のようなわけでした。

 さて独裁者となっていたマイアンドリオスには、名をカリラオスという、やや乱心気味の弟があったが、何かの罪を犯して地下牢に幽閉されていた。折しも事の成行きを耳にした彼は獄舎から外を覗き見たが、ペルシア人たちが長閑やかに坐っているのを眼にとめると、大声を立ててマイアンドリオスに会いたいといった。マイアンドリオスは彼の求めに応じて、家来に命じて弟の縛めを解いて自分の許へ連れて来させた。連れて来られるや否や、カリラオスは兄を罵り咎め、次のようにいいながら兄を説得してペルシア軍に攻撃を加えさせようとした。
「兄者は世界一の臆病者じゃ。そなたは自分の弟で、しかも縛られるような悪事は何一つ犯しておらぬわしを縛って、地下牢にまで押しこめながら、ペルシア人に国を追われ放浪の身におとされようというのに、仕返しをする勇気もないのか。しかも打ち破るにはいとも易い相手であるのにな。しかしそなたがどうしてもペルシア人が恐ろしいというのなら、わしに傭兵部隊をかしてくれ。わしが彼らにこの国へ押しかけた過ちを思い知らせてやろう。そなたの身については、無事に島から抜けられるように計らって進ぜよう。」
 カリラオスがこのようにいうと、マイアンドリオスは弟の申し出を容れたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、145、146 から

 ヘーロドトスは、マイアンドリオスが弟のカリラオスにペルシア軍への攻撃を許した理由をこう記しています。

私の思うには、自分の兵力が大王の兵力に優ると考えるような無分別を彼が起こしたというのではなく、むしろシュロソンが労せずして町を無傷のまま手中にすることを妬んだからであったのであろう。そこで彼はペルシア人を怒らせてサモスの国力をできる限り弱めた上、これを引き渡したいと考えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、146 から

 しかし私にはそうは思えません。マイアンドリオスは「サモス(12):マイアンドリオス」でお話したように、元々は僭主政より民主政をよしとするような人間でした。そのような人間がペルシア人を怒らせてサモス人を犠牲にするようなことを考えるだろうかと思うからです。ではなぜ、カリラオスがペルシア軍を攻撃したのか、と言われれば、分からない、というしかありません。カリラオスは元々幽閉されてはおらず、兄の意志とは無関係に傭兵を率いたのかもしれません。


 とにかくカリラオスは傭兵部隊を使って、もう停戦協定が成立していると信じていたペルシア人たちに襲いかかり、ペルシアの高官たちを殺したのでした。これを見てペルシア軍はすぐに反撃を始めました。一方、マイアンドリオスは、以前作らせてあった秘密の抜け穴を通って海岸に出て、そこから船でサモス島を脱出しました。この抜け穴は「ポリュクラテース(1)」でご紹介したエウパリーノスのトンネルと同じ技術を使って作られたものでしょう。

 ペルシア軍がさんざんな目に遭ったのを見た指揮官のオタネスは、出発の時にダレイオスから受けた指令――サモス市民は一人といえども殺さず奴隷にもせず、島を無傷のままシュロソンに返してやれという指令を故意に忘れたことにして、捕えたものは大人子供の別なくことごとく殺せと麾下部隊に命を下した。(中略)
 ペルシア軍はサモス島を「曳き綱式」に掃蕩した後、無人となった島をシュロソンに引き渡した。


ヘロドトス著「歴史」巻3、147~149 から

無人となった島」を引き渡されてもシュロソーンはうれしくとも何ともなかったことでしょう。無人というのは誇張だと思います。上の引用で「サモス島を『曳き綱式』に掃蕩した」とありますが、ヘーロドトスは『曳き綱式』について別の箇所で以下のように説明しています。

曳き綱式の掃蕩というのは次のようにして行なうのである。兵士が一人ずつ手をつないで、北の海岸から南岸までを貫き、こうして住民を借り出しながら全島を掃蕩するのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、31 から

ところが、サモス島には標高1000メートルを超える山がいくつもあるのです。「曳き綱式掃蕩」など無理な話でしょう。ただ、多くの人びとが殺されたのは事実だったようです。

(サモス島の最高峰 ケルキース山 1,433m)


その後、シュロソーンは無事に僭主の地位を保ったようで、彼の息子アイアケスもサモスの僭主になりました。こうしてサモスは海上帝国の夢も消え、ペルシアの支配下に入ったのでした。一方、逃げたマイアンドリオスはスパルタに行って、自分のサモスへの復帰の援助を頼んだのですが、スパルタ政府に断られて追放処分を受けました。その後マイアンドリオスがどうしたのか、ヘーロドトスは記しておりません。