神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(11):ピュータゴラースと女神ヘーラー

 高野義郎著「古代ギリシアの旅:創造の源をたずねて」

で著者は、ピュータゴラースが居を定めた3つの都市の全てに女神ヘーラーの大規模な神殿があった、と指摘しています。その3つの都市とは、ピュータゴラースが生まれた都市であるサモスと、後になって移住した南イタリアのクロトーン(現代名クロトーネ)と、そこからまた移住したメタポンティオン(現代名ベルナルダ)のことです。下にこれらの都市の位置を示します。

そして高野義郎氏は、ピュータゴラースと女神ヘーラーの間に何か関係があるのではないか、と考察を進めています。

 直角三角形についての三平方の定理で知られるピタゴラス、正しくはピュータゴラースは、紀元前571年頃、サモスに生まれ、東方先進諸国に遊んで、前532年頃にクロトーンへ渡り、20年ほどしてメタポンティオンへ移り、その地で前497年頃に亡くなったと考えられています。
 サモスは、最近はピタゴリオンと呼ばれていますが、アナトリアーに近いエーゲ海の島、サモス島の当時の首都でした。クロトーンとメタポンティオンとは、現在の南イタリアにあって、ともにイーオニア海(ギリシア語ではイーオニアー)に面しています。そして、これら三つの古代ギリシア人の都市には、そのいずれにも、女神ヘーラーに捧げられた神殿ヘーライオンの壮麗な建物がそびえていたのです。これはたんなる偶然にしか過ぎないのでしょうか。それとも、女神ヘーラー信仰は、ピュータゴラースの生涯やその思想に、本質的なかかわりをもっていたのでしょうか。


高野義郎著「古代ギリシアの旅:創造の源をたずねて」の「2.ピタゴラス学派の聖なる数10」より

 文中、「イーオニア海」という言葉が混乱を招きそうなので、補足させて下さい。これは小アジアやその近くにある島々からなるイオーニア(サモスもイオーニアに属します)とは別の場所を指しています。どうも語源が異なるようです。イーオニア海はイタリア半島ギリシアに挟まれた海域を指します。イーオニア海の北にあるのがアドリア海です。これで(些細な)補足を終えて、著者の考察に戻ります。


 著者は、上記の3都市のヘーラー神殿の各部分の長さの比が同じであることに注目しています。そして、そこから1+2+3+4=10、という数字を導き出しています。
 では、どのようにしてヘーラー神殿から、1,2,3,4が現れるのか、図で説明します。この図は神殿を上から見た図です。

一般にギリシアの神殿には内陣というものがあります。上の図での内側の長方形のことです。この内陣の間口の長さを1とすると、それ以外の部分の長さが2、3、4の比を持つ、というのが著者の主張です。これらの数の和が10になります。これはまさにピュータゴラースが神聖視していた数字です。著者は、ピュータゴラースが1+2+3+4=10を神聖視していたのは、ヘーラー信仰に由来すると推測しています。
:
(メタポンティオンのヘーラー神殿の遺跡)


 ところで、有名なアテネパルテノン神殿にはこのような比はまったくありません。パルテノン神殿はヘーラーではなくアテーナーに捧げられた神殿です。著者は、上記の比はヘーラー神殿に特有のものである、と主張しています(もっとも、ヘーラー神殿であっても上記の比に従っていない神殿もあることを著者は認めています)。


 それにしてもなぜ女神ヘーラーの数が10なのでしょうか? 著者はさまざまな理由を挙げていますが、その中で私が納得出来た理由は、妊娠の期間が10カ月ぐらいだから、というものです。ヘーラーは結婚や主婦の守り神でした。そして太古に遡れば地母神の性格を帯びていたと推測されます。母系制の社会と推測されるその時代には妊娠の期間が神聖視されたのは想像できます。そう考えると、地母神としての太古のヘーラーが10を聖数としていたのは、ありそうな話です。


 私がこの説に興味を持つのは、ピュータゴラースの教説の2つの特徴、すなわち、「万物は数である」と主張するという特徴と「輪廻転生」を信じるという特徴の両方の由来を説明することが出来ると思うからです。ピュータゴラースの数へのこだわり、特に1+2+3+4=10という数字の重視は今までの記述で説明出来ます。一方、「輪廻転生」については、ヘーラー女神の本来的な神格が「死と再生を司る大地の女神」であると推定されることからヘーラー信仰には「輪廻転生」が自然に結びつくと思われ、その信仰内容をピュータゴラースが継承したと考えれば、説明出来るのではないかと思うのです。

サモス(10):ピュータゴラース

 ポリュクラテース亡きあとに話を進める前に、彼の同時代人の話をご紹介したいと思います。ポリュクラテースが政権を奪取してそれほどたたない頃、サモスを去ろうとする人がいました。その人は今でも数学における「ピタゴラスの定理」で知られるピュータゴラースでした。この人は哲学者でもあり、いく分、新興宗教の教祖のようなところもありました。ピュータゴラースがサモスから去ろうとしたのは、伝説によれば独裁化したポリュクラテースを嫌ってのことだということです。


ピュータゴラース


 ピュータゴラースはサモス人で、印章彫り師のムネサルコスの子でした。長じるとレスボス島に移住し、そこにいた叔父のゾイロスから紹介された智者ペレキュデスに弟子入りしたということです。このペレキュデスについては次のような信じられないような話が伝えられています。

彼については数多くの驚嘆すべき話が伝えられている。すなわち、彼がサモス島の海岸を歩いていたとき、一隻の船が順風を受けて進んでいるのを見て、この船は間もなく沈むだろうと言ったのだが、事実そのとおり彼の眼の前で沈んでしまったのである。また、彼は井戸からくみ上げられた水を飲んでいて、三日目に地震が起るだろうと予言したが、実際にそのとおりになった。



ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第1巻第11章「ペレキュデス」より

 この話からするとペレキュデスというのは智者というよりかは予言者のようです。ピュータゴラースはペレキュデスの死後サモス島に戻りましたが、真理を求めてギリシア各地を巡り、さらにはエジプトをはじめとする異国の地へも赴き、そこで行われる宗教上の秘儀に参加させてもらったということです。このことから、彼の教祖的な性格が見えてきます。彼がエジプトに滞在していた頃に、サモスの政権を奪取したポリュクラテースが彼を当時のエジプト王アマシスに紹介したということです。

彼は、また若くて好学心に燃えていた頃に、故郷を後にして旅に出、ギリシアばかりでなく異国の地の秘儀にもすべて加入したのだった。
そういうわけで、彼はエジプトに滞在していたことがあるが、ポリュクラテスが書状によって彼を(エジプト王)アマシスに紹介したのはその時期のことである。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第8巻第1章「ピュタゴラス」より

ポリュクラテースはアマシスに、自分の治める国を出身とする賢者を自慢したかったのかもしれません。あるいは、エジプトに伝わる古代の叡智をピュータゴラースが学ぶことが出来るようにアマシス王に援助を願ったのかもしれません。エジプトでも古代の智慧を学んだのち、ピュータゴラースはサモスに戻りました。そこで彼が見たのは、ポリュクラテースの権力が異常に強くなって自由が失われている祖国でした。

その後、彼は再びサモス島へ戻ったが、祖国がポリュクラテスによって独裁的に支配されているのを見ると、イタリアのクロトンへ向かって船出した。そしてその地において、(ギリシア系)イタリア人たちのために法律を制定してやったので、彼は弟子たちとともに高い名声を博した。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第8巻第1章「ピュタゴラス」より

 さて、ピュータゴラースの教説はなかなか要約が難しそうです。その教説の一面には数の重視があります。ピュータゴラースは万物の根源に「数」を見たのでした。有名な直角三角形のピタゴラスの定理は、このような文脈に属するものでしょう。この「数」は「比例」ということにも関わってきます。そしてそれは音楽にも関わってきます。というのは2つの弦の長さの比が1:2であれば、それらの弦をかき鳴らした時の音はオクターブになります。2:3や3:4の比にした場合に、美しい和音になります。「比例」と「音」と「調和」という概念の間に関係が構築されます。このような比例関係がさまざまな事物の間に存在することをピュータゴラースは想定していたようです。また、10という数を神聖な数と考えていました。この10はただの10ではなく、1+2+3+4=10としての10でした。そのことを表すために、下のような図形を作って崇めていました。


 この数の重視とどういう関係があるのか、今ひとつはっきりしませんが、仏教のような輪廻転生もピュータゴラースは説いていました。それは死んだのち別の人間に生まれ変わる、というだけでなく人間以外の動物にも生まれ変わることがある、と考えていたようです。そこから肉食に対する否定的な見解(禁止するまで徹底はしていなかったようです)も導き出されています。このような考えは古代ギリシアでは珍しいことでしたので、他の人びとから、からかわれたようです。

クセノパネスは、彼について次のように述べているのである。
 そしてあるとき彼は、仔犬が杖で打たれている傍を通りかかったとき、
 哀れみの心にかられて、次のように言ったということだ。
 「よせ、打つな。それはまさしく私の友人の魂なんだから。
 啼き声を聞いて、それと分かったのだ」


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第8巻第1章「ピュタゴラス」より

 ピュータゴラースが名声を博したのは彼がクロトーンに移住してからのことなので、ピュータゴラースは全体としてはあまりサモスには関係ないかもしれません。しかし、私が読んだ本、高野義郎著「古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて」

によれば、ピュータゴラースの教説とサモスのヘーラー女神への信仰との間には深いつながりがあるというのです。この説が興味深いので、次はこの説についてご紹介します。

サモス(9):ポリュクラテース(3)

 幸運に恵まれ、栄華を享受していたポリュクラデースでしたが、アポローン祭典の挙行ののち、まもなくあるペルシア人によって殺されてしまったのでした。どのように殺されたのか、ヘーロドトスは

 マグネシアへ着いたポリュクラテスは横死を遂げることになるが、それは彼の人物にもその高邁な志にもふさわしからぬ無残な最期であった。(中略)
 オロイテスはポリュクラテスを殺害してから――その詳細はここに記すに忍びないが――死骸をさらに磔柱にかけさせた。


ヘロドトス著「歴史」巻3、125 から

と記すだけで具体的なことを記していません。

 ポリュクラテースを謀殺したのはオロイテスというペルシアの総督でした。この男がある日、別の地域を支配する総督であるミトロバテスと王宮で出会ったのですが、そこで二人が互いに自分の力量を誇って争っているうちに、ミトロバテスがオロイテスに向って、サモスも征服できぬような男が、というようなことを言ったのでした。それが、オロイテスにポリュクラテースを殺そうという気持ちを起させる原因になったのでした。

ミトロバテスがオロテロスに向って、次のような非難の言葉を浴びせたという。
「なるほどそなたは立派な男といえるであろうよ。自分の任地と目と鼻のところにあるサモスの島を王の領土にくわえることもできずにおるのだからな。それにあの島は土民の一人がわずか十五人の重装兵を率いて手中に収め、独裁しているというほど、平らげるにはいとも容易な島であるのにな。」
 オロイテスはこれを聞いてその悪罵が身にこたえたが、罵った本人に仕返しすることよりむしろ、嘲罵を蒙ったのはポリュクラテスのゆえであるというので、なんとしてもポリュクラテスを殺そうという気を起した、というのが多くの者の伝えるところである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、120 から

 オロイテスはマグネシアというところに居を構えていたのですが、そこにポリュクラテースをおびき寄せるために次のような手紙をポリュクラテースに送りました。

 オロイテスよりポリュクラテス殿へ申し上げる。貴殿には大いなる事を企図しておられるが、鵬志に添う軍資金がないと仄聞する。もし貴殿が次に小生が申し上げるごとくになされるならば、御企図の成功は疑いないのみならず、同時に小生をもお救い下さることとなろう。王カンビュセスは小生の殺害を企て、しかもそれを小生に明らさまに通告している。されば貴殿には小生の身柄と財宝を貴国に移し、財宝の一部は貴殿の有とし、一部を小生の自由にして頂きたい。資金に関する限りは、貴殿は優に全ギリシアを制覇なされるであろう。なお小生の財宝に関し御疑念がある節は、貴殿が最も信頼しておられる方をお寄越し下されば、小生自らその方にそれをお目にかけよう。


ヘロドトス著「歴史」巻3、122 から

 この手紙を読んで喜んだポリュクラテースは自分の片腕として信頼していたマイアンドリオスをオロイテスの許に送って、その財宝を確かめさせました。マイアンドリオスがサモスに戻って、その財宝が確かに巨額のものであるとポリュクラテースに報告すると(実はマイアンドリオスはオロイテスに騙されていたのですが)、ポリュクラテースはオロイテスに会うためにマグネシアに向おうとしました。そのとき、ポリュクラテースの娘が不吉な夢を見たので行かないで欲しい、とポリュクラテースに頼んだのですが、彼は聞く耳を持ちませんでした。

 ポリュクラテスは占師や身辺の者たちが切に諌止したにもかかわらず、自ら現地に赴く用意を整えていたのであったが、さらに彼の娘がこんな夢を見たのである。娘の見た夢というのは、父親が空中に吊され、ゼウスによって体を洗われ、陽の神によって油を塗られるというのであった。この夢を見た娘は、あらゆる手段を尽してポリュクラテスがオロイテスの許へ旅立つのを思い止まらせようとしたが、ことにいよいよ父が五十橈船に乗り移ろうとする時、不吉な言葉を繰返していった、父は娘に、もし自分が無事に帰国した時には、いつまでも嫁にやらぬぞと威したが、娘は父の言葉どおりになってほしい、父を失うよりはいつまでも嫁にゆけぬ方が嬉しいと答えた。


ヘロドトス著「歴史」巻3、124 から

 このあとポリュクラテースはペルシアの総督オロイテスによって殺されるのですが、娘の見た夢の意味はこういうことだったということです。ポリュクラテースは殺されたあとオロイテスの命で磔になったのですがそれが「父親が空中に吊され」ということなのでした。「ゼウスによって体を洗われ」というのは、その死骸に雨が当たることであり、雨を降らすのはゼウスの権能の一つと考えられていたからです。そして「陽の神によって油を塗られる」というのは、日光に当って体から水分を発することを意味したということです(この最後だけはよく理解出来ていません。日光に当ると体から水分を発するものなのでしょうか? ここにはヘーロドトスの説明に従って書きました)。

 かくてポリュクラテスの恵まれた数々の幸運も、(中略)このような結末を見たのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、125 から

サモス(8):ポリュクラテース(2)

 さてギリシアで一番強いという評判のスパルタは、サモス人たちの要請を受け入れて(というのもこのサモス人たちはポリュクラテースによって戦場の捨て石にされることになっていたためにポリュクラテースに反旗を翻したからですが)海路はるばるサモスまで攻めてきました。

 スパルタは大軍をもって来攻すると、サモスの町を包囲攻撃した。スパルタ軍は城壁を攻撃し、町はずれの海辺に立つ城楼にとりついたが、やがてポリュクラテスが自ら大部隊を率いて来援するに及んで撃退された。(中略)
 スパルタ軍はサモスを攻囲すること四十日に及んだが、戦局が一向に進展せぬので、ペロポネソスへ引き上げていった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、54~56 から

 ポリュクラテースはこのスパルタ軍をも撃退したのでした。スパルタが手を引いたあとの亡命サモス人たちには、その後いろいろな出来事が待っていました。

 ポリュクラテスに戦いをしかけたサモス人たちは、スパルタ軍が彼らを見捨てて引き上げようとすると、彼らもまた兵をおさめ、海路シプノス島に向った。これは彼らの軍資金が欠乏していたためであるが、当時シプノス人はその繁栄の頂上にあったのである。これは島内に金銀の鉱山を擁していたためで、彼らは数ある諸島中最大の富強を誇り、その富の強大であったことは鉱山の収入の充分の一を費してデルポイに宝蔵を献納したほどで、この宝蔵は最も豪華を誇る他の宝蔵に比しても遜色がない。(中略)サモス人の一行はシプノスに近付くと、船団の内から一隻を出し、使節を町へ送らせた。(中略)さて使節の一行が到着すると、彼らはシプノス人から十タラントンの貸与を要求した。シプノス人が貸与を拒むと、サモス人はシプノスの田畑を荒らした。これを知ったシプノス人はすぐに防衛にかけつけ、サモス人と交戦したが敗れ、多数のものがサモス人によって、市中から締め出されてしまった。そして結局シプノス人はサモス人に百タラントンを支払うことになったのである。
 サモス人たちは(中略)クレタ島のキュドニアに住みついた(中略)。


ヘロドトス著「歴史」巻3、57~59 から

 なんとも非情な、弱肉強食な話です。いままで私は、このサモス人たちをポリュクラテースに迫害された人々と思って同情してしていたのですが、今度は彼らが迫害者になって、彼らに何も害を与えていないシプノス人を攻撃して金を巻き上げたのでした。

彼らはここに五年間留まり繁栄したが、その勢いの盛んであったことは、今日キュドニアにあるいくつかの神祠、また女神ディクデュナの神殿を建立したのがこのサモス人であったことからも知られる。
 しかし六年目になって、アイギナ人クレタ島民の協力の下にサモス人を海戦に破って隷属せしめ、サモスの艦船から猪の標識のついた船首を切りとり、アイギナにあるアテナの神殿にこれを奉納した。


ヘロドトス著「歴史」巻3、59 から

 最終的にはこのサモス人たちはアイギーナ支配下に入ったようです。たぶん殺されるようなことはなったのでしょう。


 さて、この反乱も鎮圧したポリュクラテースですが、英語と日本語のウィキペディアの「ポリュクラテス」の項目によるとBC 522年に、アポローンに捧げた二重の祭典を挙行したそうです。二重の、というのはアポローンの主要な崇拝地(神殿)としてギリシア本土のデルポイと、エーゲ海の島デーロスの2つがあり、この2つの崇拝地のための祭典だったということのようです。その祭典自体をどこで行ったのでしょうか? それについてはこれらの記事は答えていません。私がこれらの記事で興味を持ったのは、「ホメーロス風讃歌」の中の「アポローンへの讃歌」がこの祭典のために作られたという説があるという箇所です。

それというのも、この「アポローンへの讃歌」は前半はデーロスに関する神話を、後半はデルポイに関する神話を物語ったものだからです。この構成が、ポリュクラテースの挙行した祭典の構造に対応していることを、この説はたぶん論拠にしているのだと思います。もし、この説が正しいのであれば、この、デーロス島に集い、アポローンを讃えて行う祭典の様子を描いた以下の箇所は、あるいはBC 522年の祭典の様子を反映しているのかもしれません。

 しかしポイボス*1よ、あなたは何にもましてデーロスを心の底より愛してる。その地には、裳裾ひくイオニア人が、自分たちの子供や貞淑な妻を伴ない集まりつどう。彼らはあなた*2を記念して競技の場を設けては、拳闘に、舞踊に、歌にと、あなたを喜ばせる。
 イオニア人がつどう場にいあわせた者は、この人々を不死なる者、老いを知らない神々に違いない、と言うほどだ。それほどまでに彼らのすべてが美しい。男たちも、帯の美しい女たちも美しく、彼らの足速い船、豊かな品々、これらを目にするならば、心楽しまずにはいられない。


岩波文庫「四つのギリシア神話―「ホメーロス讃歌」より―」の「アポローンへの讃歌」より


 しかし、私にはこの説が正しいのかどうか、よく分かりません。この「アポローンへの讃歌」が書かれた年代としてはBC 522年というのは新し過ぎるような気がします。

サモス(7):ポリュクラテース(1)

 (おそらく)BC 532年、ポリュクラテース、パンタグノス、シュロソーンの3兄弟が、ヘーラーの神域において祭典を行っているサモス人の主だった者たちを殺し、アクロポリスを占拠して政権を奪い取る、という事件がありました。当初3兄弟は島を3分割して3名がそれぞれの区域を統治したのですが、やがてポリュクラテースがパンダグノスを殺し、シュロソーンにも攻めかかりました。シュロソーンはサモス島を脱出して、亡命者として各地を放浪することになりました。

サモスを掌握した当初、ポリュクラテスは国を三分して兄弟のパンタグノスとシュロソンに頒ったのであるが、その後その一人を殺し、年下のシュロソンを国外に追放して遂にサモス全土を手中に収めた。サモス全島を制した後、エジプト王アマシスと友好関係を結び、互いに贈物を交換した。そして短期日の間にポリュクラテスの脅威は急速に増大し、イオニアはじめその他のギリシアにもあまねくその名が響きわたった。それも当然で、彼が兵を向けるところ、作戦はことごとく成功したのである。ポリュクラテスは五十橈船百隻、弓兵一千を擁し、相手が何者であろうと容赦なく掠奪行為をほしいままにした。友人に感謝されるには何も奪わずにおくよりも、奪っておいてそれを返してやる方がよいのだ、と彼は常々いっていた。彼が占領した島は多数に上り、大陸でも多数の町を占領した。


ヘロドトス著「歴史」巻3、39 から

 別の箇所でヘーロドトスは「われわれの知る限りではポリュクラテスが、海上制覇を企てた最初のギリシア人であった」と書いています。また「シュラクサイの独裁者たちを除いては、他のギリシアの独裁者中、その気宇の壮大なる点においてポリュクラテスに比肩しうるものは一人だにない」とも書いています。上の引用中「彼が占領した島は多数に上り」とありますが、その中にはイオーニア人たちの聖地であるデーロス島も含まれています。また「大陸でも多数の町を占領した」ともありますが、この頃「大陸」(小アジアのこと)はペルシアの支配下にありました。その支配地域を一部とはいえ占領したのですから、並の力ではありません。彼はミーレートスにも兵を進めましたが、ここを占領することは出来ませんでした。この時、ミーレートスを助けに来たレスボスの艦隊(おそらくはミュティレーネーの海軍)がサモスの艦隊に敗れています。

中でも特記すべきは、ミレトスのために総力を挙げて来援したレスボス軍と海戦を交えて破ったことで、サモスの城壁を繞る濠の全体は、この戦いで捕虜となったレスボス人がその虜囚期間中に掘ったものである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、39 から


 ポリュクラテースのもとでサモスは繁栄を迎えました。彼はギリシア中から有名な技術者を呼び寄せました。その中にはメガラ出身のエウパリーノスがいました。彼はサモスの町に供給する水を確保するために、サモスの背後にひかえる山に1km以上もあるトンネルを掘って水路を確保した人です。そのトンネルは山の両側から掘り進め、しかもほぼ狂いなく山の内部でつながったといいます。


エウパリーノスのトンネル



他には、当時の有名な医師であるクロトーン人のデモケデスや、クロイソスに巨大な金製と銀製の混酒器を作った名工テオドロスがいました。また技術者ではありませんが、詩人のアナクレオンもポリュクラテスの宮廷に招聘されました。
 また、ポリュクラテースは倒壊したヘーラー神殿の再建にも着手しました。


 その後ポリュクラテースは、エジプトとの同盟を破棄し、エジプトを攻めようとしているペルシア王カンビュセースに接近しました。当時カンビュセースは、エジプト攻略のための兵を集めているところでした。ポリュクラテースは使者をカンビュセースの許に送り、自分も兵力を提供したい、と伝えさせました。

 ポリュクラテスはキュロスの子カンビュセスがエジプト攻撃のために兵を集めている折に、サモス国民に知られぬように使者をカンビュセスの許へ送り、サモスの自分の所へも使者をよこして、兵員調達の依頼をしてほしいと要請したのである。これを聞いたカンビュセスは大いに乗気になって、自分のエジプト遠征に従軍する水軍の派遣をポリュクラテスに要請する使者を派遣した。ポリュクラテスは市民の内で、反乱を企てる嫌疑の最も濃厚な者たちを選び、四十隻の三段橈船に載せて派遣し、カンビュセスには彼らを再び帰国せしめぬように依頼しておいたのである。
 ポリュクラテスの派遣したサモス軍は、一説によればエジプトには達せず、航海の途中カルパトス島附近にきた時、談合の結果それ以上進まぬことに決したという。(中略)彼らがサモスに帰港してきたところを、ポリュクラテスは艦船を出して迎え撃った。しかし帰国組が勝ちを制して島に上陸したのであったが、彼らも島内での陸上戦闘には敗れ、かくして海路スパルタに走ったのであった。(中略)ポリュクラテスは、自分の配下のサモス市民の妻子を、船のドックに閉じ込め、万一市民たちが帰国部隊に寝返るような場合には、女子供をドックもろとも焼き殺す手筈を整えていたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、44~45 から

 ポリュクラテースによって捨て石にされる運命にあったサモス人たちは、帰国に失敗したのち、スパルタを頼っていったのでした。スパルタはこれらのサモス人の話を聞くと、彼らの帰国を助けるためにサモスに兵を出すことに決定しました。その決定をした理由のひとつが、例のスパルタがリュディア王クロイソスに贈った混酒器をサモス人が奪ったことに対する報復になる、ということだったそうです(「(6)サルディスの陥落」を参照下さい)。

サモス(6):サルディスの陥落

 では、話をサモスの歴史と伝説に戻します。


 レーラントス戦争終結の後、キンメリア人が馬に乗って東から小アジアに進入し、エペソスなどを襲った時に、海を隔てたサモスにはキンメリア人が襲ってくることはありませんでした。彼らは船に乗る習慣がなかったのです。


 このキンメリア人を小アジアから追い払ったのがリュディア王アリュアッテスでしたが、このアリュアッテスのところに無理やり送られようとしていたケルキューラの上流家庭の男児300人をサモスが救ったことがありました。ケルキューラというのは、ギリシア本土から見てエーゲ海とは反対側のイーオニア海側にある島で、当時はコリントスの僭主ペリアンドロスの支配下にありました。そのケルキューラの上流階級の者たちがペリアンドロスの息子を殺害したために、ペリアンドロスは報復としてケルキューラの上流階級に属する男の子を300人選んで、リュディアの首都サルディスに送ろうとしたのでした。この男の子たちはサルディスで宦官にされることになっていました。よく分かりませんがサルディスというのはそういうところでもあったのでしょう。


 さて、その男児300人を載せたコリントスの船はエペソスを目指して島づたいに航行しました。エペソスに上陸してからは陸路サルディスに向うことになっていました。エペソスのひとつ前の停泊地がサモスでした。サモス人たちはこれらケルキューラの男児の境遇を知ると以下のようなことを実行したのでした。

子供たちを携行したコリントス人の一行がサモスに着いた時、子供たちがサルディスへ送られる事情を聞き知ったサモス人たちは、アルテミスの神域に難を避けるように子供たちに教えた。そして神の庇護を求めてきた子供たちが神域から拉致されるのを許さず、コリントス人が子供たちを食糧攻めにしようとすると、サモス人はその対策として祭を催したのであるが、サモスでは今でもその時と全く同じようにしてこの祭を祝っているのである。すなわち子供たちが歎願者として神域に留まっている間中、日没とともに少年少女の歌舞を催し、彼らに胡麻と蜂蜜入りの菓子を必ず携帯させる規則を設けた。ケルキュラの子供たちがそれを奪って食糧に当てさせるためであった。そしてこれは、子供たちを見張っていたコリントス人の一行が諦めて、子供をそこへ残して引き上げるまで続けられたのである。子供たちはサモス人によってケルキュラへ送り届けられた。


ヘロドトス著「歴史」巻3、48 から


 アリュアッテスの次のリュディア王がクロイソスです。クロイソス王がミーレートスを除く大陸沿岸のイオーニア諸都市を征服した時に、サモスは征服されることはありませんでした。それからさらに下ってBC 546年、リュディアの首都サルディスがペルシアによって陥落させられた、いわゆるサルディスの陥落の時にもサモスはそれほど影響を受けなかったようです。


 サルディスの陥落に関連して、サモスについての奇妙な話をヘーロドトスは伝えています。スパルタがリュディアのクロイソス王に贈った大きな混酒器(クラテール。これはワインに水などを混ぜるための器で、古代のギリシア人はワインを水で薄めて飲むのでした。水で薄めずにワインをそのまま飲むのは無作法な大酒飲みのやることとされていました。)をサモス人が横取りした、というのです。あるいはスパルタ人がサモス人にそれを売り払ったのかもしれない、とヘーロドトスはつけ加えています。

右のような理由から、スパルタはクロイソスからの同盟の申し出を受諾したのであったが、それにはクロイソスがギリシア全土の中から、特にスパルタを友好国として選んでくれたということもあずかって力があった。そこでスパルタは、クロイソスから申し出があればいつでも応ずる気持になったのみならず、容量三百アンポレウスに及ぶ青銅の混酒器を作り、外縁のまわり一面にさまざまな模様を彫りつけ、これをクロイソスへの返礼の意味で、送り届けようとした。この混酒器はしかし、サルディスに届かなかったのであるが、その原因については次の二説がある。
 スパルタ側のいうところでは、混酒器がサルディスへ運ばれる途中、サモスの海域まできたとき、それを聞き知ったサモス人が、軍船で押し寄せてきて、混酒器を奪ったのだという。しかし当のサモス人のいうところによれば、混酒器を運搬するスパルタ人の来るのが遅すぎて、彼らは途中でサルディスが陥落し、クロイソスも捕われたことを知ると、混酒器をサモスで売ってしまったのだという。そしてサモスの数人の市民が個人的にそれを買い受け、ヘラの神殿に奉納したというのである。ひょっとすると、売り払った連中がスパルタへ帰ってから、サモス人に奪われたといったのかも知れない。


ヘロドトス著「歴史」巻1、70 から


 本当は奪ったのではなく買ったのかもしれないのですが、この出来事がのちに尾を引き、スパルタがサモスを攻撃することになります。その話は別途、紹介します。
 ところで混酒器といえば、この頃活躍していたサモスのテオドロスという名工が、クロイソスのために金製および銀製の二個の巨大な混酒器を制作した、という話もヘーロドトスは伝えています。


 サルディスの陥落の後、ペルシアの将軍ハルバコスが小アジアの諸都市を順番に征服したとき、ヘーロドトスによれば

 こうしてイオニアは再度隷従の憂目を見たのであるが、ハルバコスが大陸のイオニア諸市を征服すると、島に住むイオニア人たちもこれに恐れをなして、自発的に(ペルシア王)キュロスに降伏してしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻1、168 から

ということでした。この記事からすると、サモスも「島に住むイオニア人たち」の中に含まれるので、この時にペルシアに服属したように思えます。しかしヘーロドトスのその後の記述を見ていくと、どうもそうではなさそうです。このころサモスでは誰がリーダーで、ペルシアに対してどのような対応をしたのか分かるといいのですが、私の調べた範囲では情報を得ることが出来ませんでした。おそらく当時のサモスでは貴族の党派による争いが頻発していて、政権が安定していなかったのではないか、と推測します。

サモス(5):女神ヘーラーをめぐって

 女神ヘーラーが本来、どのような神格であったのかについて、高野義郎著「古代ギリシアの旅:創造の源をたずねて」

が、示唆に富む説明をしています。

 古代ギリシア人の世界――ヘラスと彼らは呼んでいました――をめぐった者なら誰も、女神ヘーラーに捧げられた壮麗な神殿の数々をながめて、その信仰のいかに広く、また、いかに深いものであったかをうかがい知ることができましょう。そして、いわゆるギリシア神話から来るこの女神のイメージとの大きな落差を感じるにちがいありません。


高野義郎著「古代ギリシアの旅:創造の源をたずねて」の「2.ピタゴラス学派の聖なる数10」より


(イタリアのペストゥムに現存する巨大なヘーラー新神殿)



(イタリアのペストゥムに現存する巨大なヘーラー新神殿。全体像)

 いわゆるギリシア神話では、ヘーラーは主神ゼウスの妃となっていますが、もともとは先住民族の神であったと考えられています。新しく侵入してきた民族の神ゼウスとの結婚は、両民族の融合を象徴したものといえましょう。(中略)古代ギリシアにおけるヘーラー信仰の中心地はアルゴスで、ヘーラーはこの地で主神として仰がれていたのでした。
 それでは、ヘーラーはそもそもどのような女神であり、ヘーラー信仰とはどのようなものであったのでしょうか。それは明確ではないのですが、もともとは死を司る地下女神であり、入信者たちを死になじませる秘儀がおこなわれていたと推察されています。ヘーロドトスによれば、二人の孝行息子をもった母親が、人間として得られる最善のものを彼らに与えたまえと女神に祈ったところ、一夜を社(やしろ)の中で過ごした兄弟はふたたび目覚めることがなったというのです。
 また、のちに述べるように、アルゴスの新神殿に祀られているヘーラー女神像は、ザクロを手にしていました。ザクロは多産と豊穣をあらわしています。ヘーラーの神格は、地下女神から、死と再生、多産と豊穣の地母神へと発展し、さらに、ゼウスと結ばれることによって、結婚の神となったのでしょう。


高野義郎著「古代ギリシアの旅:創造の源をたずねて」の「2.ピタゴラス学派の聖なる数10」より


 この著者は本職は理論物理学者だということですが、ギリシア、トルコ、イタリアにある古代ギリシアの遺跡をめぐり、文献もいろいろ目を通していて、この本の記述は手堅く、それでいてこの本の中には、普通の専門家が指摘しないような、はっとする仮定をいくつも書いています。


 さて、上の引用に出てくる孝行息子の兄弟の話について、ヘーロドトスの「歴史」から原文をご紹介します。これはアテーナイの政治家にして賢者と呼ばれたソローンが、リュディア王クロイソスに、幸福な人間の例を話す、という設定になっています。さて、ソローンはこう述べたのでした。

それはクレオビスとビトンの兄弟でございましょう。二人はアルゴスの生れで、生活も不自由せず、その上体力に大層恵まれておりました。二人ともに体育競技に優勝しており、さらに次のような話が伝わっております。
 アルゴスでヘラ女神の祭礼のあった折のこと、彼らの母親をどうしても牛車で社まで連れてゆかねばならぬことになりました。ところが牛が畑に出ていて時間に間に合いません。時間に追われ、二人の青年が牛代りに軛(くびき)に就いて車を曳き、母を載せて四十五スタディオンを走破して社へ着いたのでございます。祭礼に集まった群衆の環視の中でこの仕事を成し終えた兄弟は実に見事な大往生を遂げたのでございます。神様はこの実例をもって、人間にとっては生よりもむしろ死が願わしいものであることをはっきりとお示しになったのでございました。
 すなわち、アルゴス人たちは彼らを囲んで、男たちは若者の体力を讃えますし、女たちは二人の母親に、何という良い息子を持たれたことかと祝福いたしました。母親は息子たちの奉仕と、二人の良い評判とをいたく喜んで、御神像の前に立って、かくも自分の名誉を揚げてくれた息子のクレオビスとビトンに、人間として得られる最善のものを与え給え、と女神に祈ったのでございます。この祈りの後、犠牲と饗宴の行事があり、若者は社の中で眠ったのでありますが、再び起き上ることはありませんでした。これが二人の最期だったのでございます。アルゴス人は二人を世にも優れた人物だとしてその立像を作らせ、デルポイへ奉納いたしたのでございます。


ヘロドトス著「歴史」巻1、30 から

 残された母親の気持ちを考えるといたたまれなくなるのですが、ソローンはこの兄弟を幸福な人の例として挙げたのでした。


 さて、この話の主題は「人間にとっては生よりもむしろ死が願わしい」という考えだと思います。もちろんこれは普通の考え方ではありません。この話がこう主張する背景には、独特の死生観があるのだろうと私は思います。


 まず、あの世はこの世よりも優れてよい所だという考えがあるのだと思います。これについては、同じヘーロドトスがトラーキア人のトラウソイ族の習俗について書いていることが思い出されます。

トラウソイ族の風俗は、ほかのトラキア人と大体同じであるが、子供が生れたときと、人の死んだ時に、こんなことをする。子供が生れると、縁者のものがその子供のまわりに坐り、およそ人間の身に受ける不幸を全部数え上げ、この子供も生まれたからには、こうした数々の苦労に遭わなければならぬのだと、歎き悲しむのである。ところが死亡の場合には、死んだものは数々の憂き世の労苦を免れて、至福の境地に入ったのだというので、嬉々として笑い戯れながら土に埋めるのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、4 から


 もうひとつは「生まれ変わり」または「輪廻」の信仰があったのではないか、と思います。大地の女神は、母なる女神であり、そこからあらゆるものが生まれ、また死して帰っていくところなのだと思います。そして死後の世界で(しばらくなのか、長い年月なのか分かりませんが)暮らしたのちに再びこの世に生をうける、と信じていたのではないのでしょうか? 

太古にあっては生死を季節の移り変わりになぞらえて、循環的に捉えるほうが自然なような気がします。私はヘーラーの原初の姿を、「死を司る地下女神」ではなく「死と再生を司る大地の女神」と捉えたいと思います。私の中ではそれは「迷宮の女神」とつながっているような気がします。(「迷宮の女神」をめぐる私の思索を以前「ラビュリントイオ・ポトニア(迷宮の女主人)」に書きました。)