神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(3):キンメリア人の侵入

 アンドロクロスの死後エペソスにどんなことが起きたのか知りたいところですが、例によってこのあたり300年ぐらいの情報はありません。そこで時代を下ってBC 8世紀後半まで行きますと、その頃、現在その痕跡が残っている最初のアルテミス神殿が建てられたことが分かっています。柱をめぐらした形式の神殿です。考古学の調査によればこの神殿はBC 7世紀には洪水によって崩壊したそうです。そしてしばらくの間、神殿のない時代が続いたようです。一方、同じBC 7世紀であるBC 650年頃、エペソスはキンメリア人に襲われ、アルテミス神殿を含む町を荒廃させた、という伝承もあります。これはきっと、キンメリア人によってアルテミス神殿は被害を受けたが、最終的には洪水によって崩壊した、ということなのでしょう。



 キンメリア人というのは、今のウクライナあたりにいた遊牧民族だということです。それがどういう理由によるのか、やはり遊牧民族であるスキュタイ人によって追われることになり、南下していきました。その後、キンメリア人は黒海沿岸に沿って逃げていきましたが、スキュタイ人たちは途中でキンメリア人を見失い、そのまま南下を続けて、当時のメディア王国を略奪することになったということです。一方、西に向かったキンメリア人たちも行く先々で掠奪を繰り返していました。

キンメリア人がイオニアに侵攻したことがあったが、それも国々を征服するというようなことではなく、単に略奪を目的とする侵入にすぎなかった(後略)。


ヘロドトス著 歴史 巻1、6 から

 日本語版ウィキペディアの「キンメリア人」の項によれば、BC 650年~645年頃、リュディア王のググがキンメリア人に攻められ、アッシリアに援軍を求めたが、間もなく殺され、その墓も略奪された、ということです。また、「王様の耳はロバの耳」の童話の主人公であるミダス王はプリュギアの王でしたが、キンメリア人の侵略に直面して毒を飲んで自殺したそうです。リュディア王ググのことはヘーロドトスの「歴史」の中では「ギュゲス」という名前で登場します。しかしヘーロドトスは彼の時代にキンメリア人の侵入があったことを伝えていません。ヘーロドトスは、ギュゲスの次にリュディア王になったアルデュスの時に、キンメリア人が来攻してリュディアの首都サルディスを占領したことを伝えています。

このアルデュスはプリエネを占領、ミレトスに侵攻したが、彼がサルディスを支配している時期に、キンメリア人がスキュティア系遊牧民の圧迫で定住地を追われて、アジアの地に入り込み、サルディスをそのアクロポリス*1を除いてことごとく占拠した。


ヘロドトス著 歴史 巻1、15 から


 キンメリア人はエペソスにもやってきました。当時エペソスに住んでいた詩人のカリノスはそのことを歌っています。

今や凶暴なキンメリア人の軍勢が攻め寄せる。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」から

 また、このようにも歌っています。

敵に対して、自分の国と子らと正しく定まる妻のために
戦うことは男にとって名誉であり光輝である。
されどモイライ(運命の女神たち)が糸をつむぐ時には
いつでも死が来るであろう。


英語版Wikipediaの「カリノス」の項より

 カリノスについて現在知られていることはごくわずかなようです。私はカリノス自身がキンメリア人と戦ったのかどうか、知りたいところです。


 エペソスは、キンメリア人たちの掠奪を忍ばなければなりませんでした。その後キンメリア人は、アルデュスの次の次のリュディア王であるアリュアッテスによって駆逐されました。

アルデュスの治世が四十九年に及んだのち、アルデュスの子サデュアッテスが王位を継承し、十二年間統治したが、サデュアッテスのあとをアリュアッテスが継いだ。このアリュアッテスは、デイオケスの子孫であるキュアクサレスおよびその指揮下のメディア人と戦い、キンメリア人をアジアから駆逐し(中略)た。


ヘロドトス著 歴史 巻1、16 から

 英語版Wikipediaの「キンメリア人」の項によると、その前にキンメリア人は疫病に襲われていたらしい、ということです。そしてこの戦いによってキンメリア人は小アジアから姿を消したのでした。

*1:高みに建設された中心部