神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エピダウロス(8):ペルシア戦争

ペリアンドロスの次には甥のプサンメティコスが後を継ぎましたが、3年で政権から追われました。おそらくこの時にエピダウロスコリントスの支配から脱することが出来たようです。コリントスの支配を脱した後のエピダウロスは、貴族制に戻りました。これがいつ頃のことかといいますと、ペリアンドロスの死がBC 585年頃とされているので、エピダウロスが貴族制に復帰したのもその頃ではないかと推測しています。その後のエピダウロスについては、100年もあとの第2次ペルシア戦争(BC 480年)にエピダウロスが兵を出したという記事しか見つけることが出来ませんでした。この100年の間には近くのアテーナイではソローンの改革、ペイシストラトスとその子供たちによる僭主政治、僭主政治の崩壊、民主制の進展など多くの出来事があったことが知られています。また、かつてはエピダウロス領だったアイギーナ海上勢力としての力をつけ、クレータ島のキュドニアに海軍基地を設け、エジプトの港町ナククラティスに商業拠点を置いて繫栄していたことや、アテーナイと抗争を繰り返していたことなどが知られています。しかしその間エピダウロスにはどのようなことが起きたのか知ることが私には出来ませんでした。残念です。


そんなわけで叙述をBC 480年のペルシアによるギリシア本土侵攻まで飛ばします。この時、ギリシアの全部のポリス(=都市国家)がペルシアの侵攻に抵抗したのではなく、日和見を決めていた都市や、積極的にペルシアに服属した都市もありました。エピダウロスの近くではアルゴス日和見を決めていました。しかしエピダウロスはアテーナイやスパルタとともにペルシアと戦う道を選びました。エウボイア島の北のアルテミシオンの海戦では8隻の軍船を出しています。その後、ペルシア軍がさらに南下してアテーナイを占領した直後のサラミースの海戦では10隻の軍船を出しています。それと同時にコリントス地峡に長城を建設することにも参加しています。

ペルシア軍の陸路からの侵入を妨げるために、あらゆる可能な方策が講じられてはいた。ペロポネソスの住民たちは、(スパルタ王)レオニダス麾下の部隊がテルモピュライで戦死したとの報に接すると、各都市から急遽地峡に集まりここに陣を布いた。(中略)地峡に陣取ったペロポネソス人は、スケイロン街道を破壊し、ついで協議の末地峡を横断して長城を築くことになった。何分幾万という人員がひとり残らず仕事にかかったので、工事は捗っていった。石材、煉瓦、木材、砂を詰めた籠が続々と運びこまれ、防衛部隊は昼夜の別なく瞬時も休まずに働いたからである。
 国を挙げて地峡の防衛に馳せ参じたギリシア諸国は次のとおりである。スパルタ人にアルカディアの全兵力、エリス人、コリントス人、シキュオン人、エピダウロス、プレイウス人、トロイゼン人、ヘルミオネ人らがそれで、いずれも危機に瀕したギリシアの運命を憂い来援したものであった。それ以外のペロポネソス諸国は(中略)これに全く無関心であった。(中略)
さてこれらの(中略)町の内、先に列挙したもの以外は、中立の立場をとった。もし忌憚なくいうことが許されるならば、彼らは中立を保つことによって、ペルシア側に与したというべきである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、71~73 から


サラミースの海戦はギリシア側の勝利となり、ペルシア王クセルクセースはあわてて本国へ逃げ帰りました。しかし翌BC 479年、ペルシアの将軍マルドニオスが陸軍を率いてギリシアの北側から南下し、再度アテーナイを占領しました。この時ギリシア諸都市の連合軍はプラタイアでペルシア軍を撃ち破りました。この時にもエピダウロスは兵800名を派遣しています。ただし、両軍のにらみ合いが続く中で、エピダウロス軍は戦線から離脱してしまい、決戦には参加していません。ペルシアの騎兵隊の攻撃により水源地を奪われてしまったために、近くの河の中にある島まで撤退することにしたのですが、いざ撤退するとなった時にその島よりさらに遠くまで逃げていってしまったのでした。これはエピダウロスだけのことではなく、参加したほとんどの国が逃げてしまったのでした。

指揮官たちは協議の末、もしペルシア軍がその日戦争をしかけずに終るならば、「島」に移ることに決した。(中略)陸地に島があるというのは、キタイロンから平野に流れる河が分岐し、およそ三スタディオンの距離をおいて二つの流れとなり、それからまた一つの河床に合流するのである。(中略)ギリシア軍の指揮官たちは、水も豊富に入手でき、敵の騎兵からも真正面に相対しているときよりは被害を蒙ることが少なかろうというので、この場所に陣営を移すことに決したのである。そして行動を起こすところをペルシア軍に見られ、騎兵隊に追われ攪乱させるのを避けるために、移動は夜中の第二夜警時にすることにきまった。(中略)
右の決定をしたのち、ギリシア軍はその日は終日、襲いかかる騎兵隊のために間断なく苦しめられた。やがて日が暮れ騎兵隊の攻撃も熄(や)み、夜に入ってやがて打ち合わせた撤退の時刻となったとき、多数の部隊は陣営を畳んで撤退を始めたのである。しかし彼らは約束の場所にゆくことなどは念頭になく、一旦移動を始めると、騎兵部隊から逃れられる嬉しさから道をプラタイアの方向にとり、逃亡をつづけてヘラの神殿に達した。(中略)ここに着いた彼らは神殿の前で停止して武器を置いた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、51、52 から

撤退せずに残ったのはスパルタ、アテーナイ、テゲアの三カ国(=三都市)だけで、結局この三国の部隊だけで、ペルシア軍を撃ち破ったのでした。