神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

パロス(12):パロスとナクソス

マラトーンの敗戦から10年後、ダーレイオスの息子でペルシアの王位を継いだクセルクセースは、ギリシアへの再度の侵攻を行ないました。今度は王自らが陸軍と海軍を率いての侵攻でした。クセルクセースが軍を進発する前にギリシア各地に服属を要求する使者を派遣したところ、エーゲ海のほとんどの島々はペルシアの武力を怖れ、服属する旨を使者に回答しました。


ペルシア軍はギリシアを北から攻め、ギリシア本土をどんどん南下して、ついにアテーナイも占領されました。アテーナイ人はといえば、非戦闘員は各地に疎開し、戦闘員はアテーナイ沖のサラミース島に軍船を集めて待機していました。そしてペルシアに対抗する意思のあるギリシア各都市の海軍もアテーナイ軍とともにここに集結していました。アテーナイとサラミース島に挟まれた狭い海域が決戦の場になることが明らかになってきました。


この時点でパロスにもナクソスにもペルシア側から「艦隊を派遣し、決戦に参加せよ」という指令が届きました。ナクソスの船隊はサラミースに到着すると、ペルシア側を離脱しギリシア側陣営にやってきました。

ナクソス人は船四隻を出した。彼らは本来他の島の住民と同様に、ペルシア軍に加わるべく国許から派遣されたものであったが、デモクリトスの熱心な勧めに従い、受けた指令を無視してギリシア陣営に走ったのである。このデモクリトスは町の名士で当時三段橈船の指揮官であった。


ヘロドトス著「歴史」巻8、46 から

一方、パロスの船はといいますと、こちらは戦場のサラミースに向う途中にあるキュトノス島で止まって、形勢がどちらに有利になるかを観望する構えでした。

(上:キュトノス島の位置)



(上:キュトノス島)


パロス艦隊が傍観しているうちにサラミースの海戦ギリシア側の大勝に終わりました。敗戦に青ざめたクセルクセースは急いでペルシア本国に逃げていきました。ギリシア側は海戦のあと、ペルシアが新たな海戦を挑んでくることを予期してそれに備えていました。しかしペルシア側が攻めてこないので、遅まきながら追撃したところ、ペルシア海軍はすでに遠くに去っていることに気付きました。

夜が明けて敵の陸上部隊がもとのままに留まっているのを見たギリシア軍は、水軍もパレロン附近にあるものと思い、敵が海戦を試みるであろうと信じて、抗戦の準備にかかっていた。しかし敵の水軍がすでに退却したことを知ると、ただちに追撃することに決した。彼らはアンドロス島まで迫ったが、クセルクセスの水軍の姿を認めることができなかった(後略)。


ヘロドトス著「歴史」巻8、108 から


そこでギリシア軍は追撃は止めることにし、ペルシア側に協力したアンドロス島を懲罰のために攻めることにしました。そしてアンドロス島を攻略中に、ギリシア軍内のアテーナイの知将テミストクレースは、ペルシアに味方した他の島々を威嚇して金銭を要求しました。パロスもテミストクレースから金銭を要求されました。

テミストクレスは(中略)他の島々へも威嚇的な申し入れをし、金銭を要求した。もしこちらの要求するものを与えねば、ギリシア軍をさし向け、包囲して占領すると伝えさせたのである。テミストクレスはこのような言辞を弄して、カリュストス人やパロス人らから多額の金を集めたのであるが、これらの住民はアンドロスがペルシア側に加担したために攻囲をうけたこと、またテミストクレスが指揮官中で最も令名の高い人物であることなどを聞き、恐れをなして右の金を送付してきたのであった。(中略)パロス人はしかし金によってテミストクレスを宥めることに成功し、攻撃を免れたのである。このようにテミストクレスアンドロスを基地とし、他の指揮官には内密で島嶼民から金銭をまき上げていた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、112 から

今回はギリシア連合軍にかなわないと思ったのでしょうか、パロスは金銭をテミストクレースに払って難を逃れたのでした。


こののち、パロスやナクソスは、アテーナイが組織したデーロス同盟に参加します。クセルクセースが侵攻した時にギリシア側に寝返ったナクソスは、同盟内でパロスより優遇されていただろう、と思いきや、BC 468年、ナクソスはアテーナイに反抗したために、アテーナイの植民地に落とされてしまうのでした。一方、パロスはアテーナイに反抗することなく、ペロポネーソス戦争の終結までデーロス同盟に留まりました。

(上:デーロス島の「ライオンのテラス」。ナクソス人が奉献した。)