神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テーノス(6):ペルシア軍の侵攻

この時のペルシア軍のナクソス侵攻は失敗しました。しかし、ペルシアは9年後(BC 490年)にまたナクソスに侵攻します。今回はナクソスだけでなく、アテーナイとエレトリアをも標的にしていました。というのは、BC 499年にペルシア支配下のイオーニアの諸都市が反乱を起こした(イオーニアの反乱)のですが、そのときにアテーナイとエレトリアはイオーニア側に援軍を送ったからです。


ペルシア軍がナクソスを占領すると、テーノスにはデーロス島からの避難民がやってきました。

 彼ら(=ペルシア海軍)がイカロス海からさらに進んでナクソスに接岸したとき(中略)ナクソス人は先年の経験を覚えていて山中に逃避し、ペルシア軍を迎え撃とうとはしなかった。そこでペルシア軍は捕えただけのナクソス人を奴隷にし、聖域と市街に火を放って焼き、そうしてから他の島に向った。
 ペルシア軍が右のような作戦を展開中、デロス島の住民もデロス島を引き払い、テノス島に避難した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、96~97 から

ところが、ペルシア軍の総大将ダティスはデーロス島を神聖な島であるとして、自軍がそこに碇泊することを許しませんでした。

艦隊がデロスに近付くと、ダティスは艦隊の先頭に出て、艦船がデロス島附近に碇泊することを許さず、デロス島の先にあるレナイア島(=レーネイア島)に碇泊せしめた。ダティスはデロス人の所在を知ると伝令をやって次のように伝えさせた。
 「聖なる町の住民たちに告ぐ。何故にそなたらは故もなく私のことを悪しざまに思いなして、町を捨て退散したのであるか。かの二柱の神(=アポローンとアルテミス)の生(あ)れましたこの国においては、国土にもその住民にも何らの危害も加えぬという程の分別は私自身にもあるし、また大王からそのように仰せ付かってもいる。さればそなたらもおのおの自宅に帰り、この島に居住するがよい。」
 ダティスはこのようにデロス人に伝えさせたのち、三百タラントンの香木を積み上げ、これを焚いた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、97 から

つまり、ダティスやペルシア王ダーレイオスはデーロス島の神聖さを尊重したのでした。これは私には不思議に思います。ペルシア人がなぜギリシア人の聖地を尊重したのでしょうか? この時代のペルシア人ギリシアの神話伝説を信じていたとはとても思えません。当時彼らが信じていたのはゾロアスター教という一神教に近い宗教ではなかったかと私は思っていたので、この頃のペルシアの王族が信じていた宗教について少し調べてみました。すると当時の宗教をゾロアスター教とは厳密には呼べないようであり、また、他の宗教も並列して信じられていたようです。

ダレイオス王家の大王たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。なお、アケメネス朝の碑文にはアフラ・マズダー(正確にはアウラマズダー)のほか、ミスラやエラムメソポタミアの神々の名が登場し、諸民族の多様な宗教に配慮していたことがうかがえる。仮にザラスシュトラ(=ゾロアスター)の教えがその中に含まれていても、数ある中の一つに過ぎなかったと考えられる。


日本語版ウィキペディアの「ゾロアスター教」の項より

上の引用には「諸民族の多様な宗教に配慮していた」とあるので、ギリシア本土を征服したときのために、ダティスはギリシア人の聖地を尊重するポーズを示したのかもしれません。


それはともかく、上のダティスの布告を聞いてテーノス島に避難してきたデーロス人たちは、またデーロス島に引き返したということです。しかしペルシア軍は、その他の島々には容赦しませんでした。

ペルシア軍はデロスを去って後、次々に島に接岸してそこから軍兵を徴用し、住民の子供を人質とした。


ヘロドトス著「歴史」巻6、99 から

おそらくテーノスにもペルシア軍は上陸して「そこから軍兵を徴用し、住民の子供を人質とした」ことでしょう。