神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テーノス(3):カーリア人


(上:デーロス島


テーノスが登場する神話として私が見つけることが出来たのは以上の2つだけでした。そこで次に、テーノス島の近くにあるデーロス島に関する伝説のなかにテーノスの姿が何か見えないかと思って、調べてみました。アニオスはデーロス島の伝説的な最初の王で、かつアポローンの神官でしたが、彼について英語版のWikipediaは以下のように記していました。

アニオスには、オイノトロポイとして知られるオイノー、スペルモー、エライスという3人の娘と、アンドロス、ミコノス、タソスという3人の息子がいました。彼らの母親はドーリッペーというトラーキア人女性で、彼女を誘拐した海賊から馬一頭の代金でアニオスによって身代金を支払われました。(中略)
アニオスの3人の息子のうち、アンドロスとミュコノスはそれぞれアンドロス島とミュコノス島の名祖となりました。 タソスはというと彼は犬に食べられ、それ以来、デーロス島では犬を飼うことが禁止されました。


英語版Wkipediaの「アニオス」の項より

これによれば、アンドロス島とミュコノス島はデーロス島の王の2人の息子であるアンドロスとミュコノスの名前にちなんで付けられた、ということです。おそらくこの2人がそれぞれの島の初代の王だったのでしょう。ところが、テーノス島はアンドロス島とミュコノス島の間に位置するというのに、この話に登場しません。アニオスにはもう一人、タソスという息子がいたということなので、彼がテーノス島に関係するかと期待したのですが、犬に食われた、ということで、何じゃそれは? と思うような話です。あるいはエーゲ海にはタソスという名前の島もあるので、このタソスは本来この島の名祖だったかもしれない、と思ったのですが、ヘーロドトスによるとタソス島の由来は、フェニキア人であるタソスという人物がこの島に移住したことだそうで、タソス島とアニオスの息子のタソスとは無関係のようです。ヘーロドトスによればタソス島にはかつてフェニキア人の植民者が住んでいたということですが、ひょっとするとテーノスもそうだったかもしれません。あるいはテーノス島にはフェニキア人ではなくカーリア人が住んでいたかもしれません。というのは、テーノス島に近いケオース島の伝説は、かつてカーリア人が住んでいたと言っているからです。

発端は、巨大なライオンにパルナッソスを遂(お)われて、
この島(=ケオース島)に住んでいた、コリュキオンのニンフらのこと、
島が、ヒュドルサと呼ばれることになった謂(いわ)れだ。(中略)
さらに、カリア人とレレゲス人がここに住みついたこと、
ラッパの音と共に捧げる彼らの生贄を、鬨(とき)の声の神ゼウスは、
渝(かわ)らずに嘉(よみ)したまう。


ギリシア恋愛小曲集」の中のカッリマコス作「アコンティオスとキュディッペ」中務 哲郎訳 より


さらにトゥーキュディデースによれば、デーロス島にかつてカーリア人が住んでいたということです。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人(=フェニキア人)であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦(=ペロポネーソス戦争)中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取り除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、8 から

これらのことから推測すると、テーノス島も古くはカーリア人が住んでいたのかもしれません。そしてある時代にギリシア人がテーノス島からカーリア人を駆逐したのでしょう。そのギリシア人が、いわゆる英雄時代に相当すると言われているミュケーナイ文明時代のギリシア人なのか、それともその後出現するイオーニア人なのか、私にはよく分かりません。


トロイア戦争のあと、テーノス島がどうなったのかについても私には分かりません。私が分かるのはBC 8世紀頃、テーノス島はエレトリアの支配を受けていたらしい、ということです。エレトリアはエウボイア島にある都市です。ストラボーンは以下のように書いています。

エレトリア人がかつて持っていた勢力については、彼らがかつてアルテミス・アマリュンティアの神殿に装備された柱がそれを証明しています。その柱には、エレトリア人たちが3000人の重武装した兵士、600人の騎手、そして60人の戦車による祭礼の行列を仕立てた様子が刻まれていました。そして彼らはアンドロス、テーノス、ケオース、そして他の島々の人々を支配していました。


ストラボーン「地理誌」 10.1.10より