神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(6):イオーニアの反乱

BC 572年、リュサニアスがシキュオーンに向った時から11年後、エレトリアは亡命してきたアテーナイのペイシストラトスとその一族を迎え入れます。ペイシストラトスはアテーナイの僭主でしたが、政変によりアテーナイから亡命してきたのでした。彼はすぐに諸都市の援助を受けてアテーナイに進攻し、再び僭主に返り咲きました。エレトリアがなぜペイシストラトスの亡命先として選ばれたのか、興味がありますが、まだ調べがついていません。これに関しては、ギリシア神話でアテーナイ王テーセウスがメネステウスによって追放され、テーセウスがスキューロス島へ、テーセウスの息子たちがエウボイア島へ亡命した、という話を思い出します。ひょっとして、ペイシストラトスのエレトリア亡命からこのような話が出来たのでしょうか?


その後、BC 538年にはエレトリアでも僭主が現れたようです。エレトリアの貴族の一員であったディアゴラスは、自分の息子か娘の結婚のことで他の貴族から不正な扱いをされ、そのために寡頭制を打倒して、自ら全権を握ったということです。残念ながらこの事件についてもあまり情報を集めることが出来ませんでした。


ディアゴラスの政権が崩壊したのちのBC 499年、エレトリアは小アジアミーレートスの僭主アリスタゴラスを迎えていました。当時、ミーレートスのある小アジア海岸一帯(=イオーニア地方)はペルシア王国の支配下にありましたが、アリスタゴラスはその一帯の他のギリシア都市とともにペルシアに対して反乱する意志のあることをエレトリア政府に打明けました。そして彼はエレトリアに対して、反乱を援助する兵を送ってほしいと要請しました。エレトリア政府の要人たちは協議の結果、ミーレートスに援軍を派遣することに決定しました。その決定の一番の理由は、約200年前エレトリアがカルキスと戦争した時(=レーラントス戦争)、ミーレートスがエレトリアに味方してくれたことでした。こうしてエレトリアは、ペルシアの国力もよく把握しないまま、200年前に受けた恩義を理由にペルシアと戦う決意をし、翌BC 498年、5隻の軍船をミーレートスに派遣したのでした。

アリスタゴラスの許へは、アテナイ軍が二十隻の艦隊と、エレトリアの派遣した三段橈船五隻を伴って到着した。エレトリアがこの遠征に参加したのは、アテナイのためではなくミレトスへの恩義のためであった。というのは、昔エレトリアがカルキスと戦った時、ミレトスがエレトリアの側に立って援助したので――なおこのときエレトリアとミレトスを敵として戦ったカルキスを助けたのはサモスであった――エレトリアとしてはその時ミレトスから受けた恩義に報いるという意味があったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、99 から


ミーレートスに集結したイオーニア諸都市とエレトリアとアテーナイの同盟軍は、ペルシア王国の小アジアにおける拠点であるサルディスへ向いました。イオーニアの同盟軍が攻めて来ることを予期していなかったサルディスは、簡単に占領されます。しかし手違いにより火災が発生し、それが町全体に拡がってしまいました。そのためにイオーニア軍自身もサルディスから撤退することにしました。この時、サルディスの守護神の神殿も焼けてしまいました。


その後、周辺のペルシア軍がこの異変を聞きつけてサルディスに救援に向かいます。

さてこの時、ハリュス河以西に居住していたペルシア人は、あらかじめイオニア人の侵攻を聞き知り、集結してリュディア人の救援にかけつけた。


ヘロドトス著「歴史」巻5、102 から

リュディア人というのは小アジアをかつて支配していた民族です。そしてサルディスはかつてリュディア王国の首都でした。それが今はペルシアの支配下に入っているのでした。

しかしサルディスにはすでにイオニア軍の姿を見なかったので、その後を追い、遂にエペソスでこれを捕捉した。イオニア軍はペルシア軍を迎え撃ったが、さんざんに打ち破られ、多数のものがペルシア軍に殺されたが、名ある戦死者の中には、エレトリア軍の指揮者エウアルキデスも交っていた。この人は競技にいくたびか優勝の栄冠をかち得て、ケオスの詩人シモニデスにその誉れを高く讃美された人物である。この戦闘に生き残ったものは、四散して思い思いに国へ帰ってしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、102 から


その後もイオーニアの反乱は続きますが、エレトリアはこの反乱から手を引きました。しかし、ペルシア王ダーレイオスは、エレトリアとアテーナイがこの反乱に参加していたことの報告を受け、この二国の名前を心に刻んだのでした。