神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スタゲイラ(4):ペルシア→アテーナイ→スパルタ→マケドニア

その後スタゲイラはペルシアの支配下にありました。BC 480年、ペルシア王クセルクセースは陸海両軍を率いてギリシア本土を征服しようとしました。この時、進軍の経路に当っていたスタゲイラは、ペルシア軍への従軍を強要されました。

ストリュモン河畔を発って進むと、西方に向って拡がる海浜があり、その浜にアルギロスというギリシア人の町があるが、遠征軍はこの町を通過した。この地域およびこれより上部一帯はビサルティアと呼ばれている。
 ここからポセイデイオン岬付近の湾を左手にしながら、シュレウス平野と呼ばれる平原を進んでいったが、ギリシアの町スタギロス(=スタゲイラ)を過ぎ、やがてアカントスへ着いた。この間ペルシア軍は、先に列挙した諸民族の場合と同様に、途上に住む民族およびパンガイオン山周辺の住民をことごとく傘下に加え、海辺に住むものたちは水軍に、海岸より奥地の住民は陸上部隊編入して従軍せしめたのである。クセルクセス王が軍を進めた通路を、トラキア人たちは神聖視して大切に保存しており、耕作のため鋤(す)き崩したり播種したりもせず今日に及んでいる。


ヘロドトス著「歴史」巻7、115 から

上の引用には「海辺に住むものたちは水軍に、海岸より奥地の住民は陸上部隊編入して」とありますが、スタゲイラは海辺の町なので軍船の供出を求められたと推測します。


このあと大軍のペルシア軍はアテーナイ沖のサラーミスでの海戦で、ギリシア諸都市の連合軍に敗北してしまいます。ペルシア王クセルクセースは、敗戦を悟ると慌ててアジアに向って去っていきました。これがきっかけになってギリシア世界はペルシアの支配から脱します。エーゲ海で新しく覇権を握ったのはアテーナイでした。アテーナイは、デーロス島に同盟の金庫を持つデーロス同盟を組織しました。これは最初はペルシアに対抗するためのギリシア諸都市の同盟として発足したのでしたが、やがてアテーナイが同盟諸国を支配する体制に変質していきました。スタゲイラは、このデーロス同盟に参加しました。ペルシアの支配を抜けたと思ったら、今度はアテーナイの支配を受けたという訳です。



アテーナイを中心とするデーロス同盟は、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟と何かと対立するようになります。BC 431年、デーロス同盟とペロポネーソス同盟は戦争状態に突入します(ペロポネーソス戦争)。スタゲイラは最初デーロス同盟側でアテーナイに協力していました。しかし、BC 424年、スパルタの名将ブラーシダースが軍を率いてアカントスにやってきて、アカントス市民を説得してスパルタ側に寝返らせました。アカントスはスタゲイラと同じくアンドロスの植民市で、スタゲイラの近くにありました。スタゲイラはアカントスがスパルタ側に付いたことを知ると、自分たちもスパルタ側に寝返ることに決定しました。


この結果、BC 422年にスタゲイラはアテーナイ軍の包囲を受けることになりました。この時のアテーナイ軍の司令官はクレオーンという人物で、ポピュリズムの政治家でした。他の政治家を批判することは得意ではあるが、軍事的手腕は乏しいという人物でした。このためアテーナイ軍による包囲は効果を上げることが出来ず、結局、スタゲイラをあきらめて、ブラーシダースと決戦するためにアンピポリスという町に向うことになりました。このアンピポリスの戦いでスパルタ軍は大勝し、クレオーンは戦死しました。このため、スタゲイラはスパルタ側に付いたままで以降のペロポネーソス戦争を戦います。ペロポネーソス戦争はBC 404年にスパルタ側の勝利となり、このあとしばらくスタゲイラはスパルタの支配を受けます。


スパルタはその後余勢を駆ってペルシアに攻め込みますが、ペルシアはスパルタに兵を引かせるために、ギリシア本土に紛争を起こすように工作します。ペルシア人自らが工作するのではなく、ギリシア人でロドス島の人であるティーモクラテースという人物に工作資金を渡して、アテーナイ、テーバイ、コリントスアルゴスに対スパルタ戦争を起こすように説得させたのでした。なかなかうまいやり方です。こうしてBC 395年、テーバイ、アテーナイ、コリントスがスパルタに対して戦争を仕掛けました。このため、小アジア(当時ペルシア領でした)に侵攻中のスパルタ軍は母国スパルタに戻らざるを得なくなりました。この後数年間、戦いは一進一退します。ペルシアにとってこの戦争は当初はスパルタの力を削ぐために引き起こしたものでしたが、かといって、アテーナイが戦いを優位に進め再びエーゲ海の覇権を確立することもペルシアにとっては面白くない事態でした。結局ペルシアは、スパルタに有利な形でギリシア人同士の戦争を休戦させました。これはBC 387年の大王の和約と呼ばれるものです。


この間、スタゲイラにどのようなことが起きていたのかよく分かりません。大雑把に言えばスパルタの支配力が弱まり、代わりに西のマケドニアの影響力が増したようです。この頃スタゲイラにはニーコマコスという医者がいましたが、彼はマケドニア王アミュンタス3世の侍医でした。このニーコマコスの息子が有名な哲学者アリストテレースです。アリストテレースはBC 384年にスタゲイラで生まれました。