神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーロス(3):リンゴのマーク


ギリシア本土が動乱を迎えるBC 1200年頃になると、フィラコピは住民から放棄されてしまいます。おそらく本土での動乱の影響なのでしょう。その頃のことについて伝説は何も語ってくれません。


その後、メーロス島にドーリス人がやってきます。フェニキア人も一時期メーロス島に住んでいたようです。どちらが先にメーロス島にやってきたのか、調べてもよく分かりませんでした。この頃、フェニキア人とカリア人は、エーゲ海の島々に広く植民していたのでした。トゥーキュデュデースは「戦史」の中で「当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人(=フェニキア人)であ」った(巻1、8)と述べています。そのトゥーキュディデースの「戦史」の別の箇所によれば、ドーリス人がメーロス島にやってきてからBC 416年までの間に700年の期間があるということです。私は、その700年の歴史を知りたいと思っています。しかし、私が知ることが出来たのはごくわずかなことだけでした。


トゥーキュデュデースの記事によればメーロスの町の建設はBC 12世紀だということになります。しかしこれは古すぎる想定であって、おそらくはBC 10世紀というのがより正しいでしょう。そこから一気にBC 6世紀まで下ります。その間の出来事については分かりませんでした。BC 6世紀にメーロス島は独自の硬貨を発行していました。その硬貨にはリンゴの絵が刻印されていました。このリンゴはメーロス市のシンボルでした。それというのも、古代ギリシア語ではリンゴのことをメーロン(リンゴがメロンとはややこしい話ですが)と発音したのですが、これがメーロス人のことを意味するメーリオンと発音が似ていたので、リンゴをメーロス市のシンボルとしたということです。


さらに時代が下ってBC 480年のこと、ペルシア王クセルクセースは陸海の大軍を率いてアテーナイを占領し、アテーナイ沖のサラミース島に立て籠もるギリシア連合軍との決戦に挑みました。これが世に名高いサラミースの海戦です。この時、エーゲ海のほとんどの島の住民はペルシア側につきました。ギリシア側についた島は8つの島だけで、メーロス島はその中にありました。つまり、メーロスの住民はペルシア側が圧倒的に優位と思われた状況で、ペルシアへの服属を容認せず、ギリシアの独立を守る戦いに参加したのでした。

 またセリポス、シプノス、メロス各島の住民も水軍に加わって奮戦した。島嶼の中では右の諸島のみがペルシアに土と水を献じなかったからである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、46 から

なお、上の引用に含まれていなくてギリシア側についた島にはアイギーナ、エウボイア、ケオスナクソス、キュトノスがあります。

 他の部隊が三段橈船を出して参戦したのに対し、メロス、シプノス、セリポスの各島は、五十橈船を出した。メロス人はスパルタからの移住民であるが、五十橈船二隻を、シプノス人およびセリポス人はアテナイを発祥地とするイオニア族で、おのおの一隻を出した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、48 から

かくしてメーロス島の住民もサラミースの海戦にギリシア側で参戦し、ギリシア側の勝利に貢献したのでした。その後、アテーナイが対ペルシアの同盟であるデーロス同盟を組織すると、メーロスも同盟に参加しました。


BC 431年にアテーナイとスパルタの間にペロポネーソス戦争が始まると、メロス島は困った立場になりました。デーロス同盟参加国という立場ではアテーナイ側に与すべきでしたが、一方スパルタの植民市という立場ではスパルタに与すべきでした。そこでメーロスは中立を宣言することにしました。しかし、戦争は10年以上続き、やがてメーロスも戦争に巻き込まれる事態となったのでした。