神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アンドロス(7):その後のアンドロス

ギリシア勢がペルシア勢をエーゲ海から駆逐すると、アンドロスとしてもギリシア諸都市と和解せざるを得なくなりました。アテーナイが対ペルシア軍事同盟であるデーロス同盟を組織すると、アンドロスはこれに参加しました。しかし、BC 477 アンドロスを危険視したアテーナイはアンドロスに植民市を建設し、アンドロスはこれを受け入れざるを得ませんでした。通常のタイプの植民市は、母市との関係があまり強くないのですが、これはクレルーキアという植民市のタイプで、この植民団はアテーナイの市民権を保持したままアンドロスに移住してきたのでした。つまり、アンドロス島の一部をなかばアテーナイに占領された形になりました。


BC 431年にペロポネーソス戦争(アテーナイを中心とするデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟の間の戦争)が始まると、アンドロスはアテーナイ側に協力しました。しかし、アンドロスは実際にはアテーナイの支配から脱したがっていました。BC 414年。アテーナイとその同盟軍がシケリア島(現在の名前、シシリー島)の都市シュラクーサイ(現在の名前、シラクサ)を攻略した時に、シュラクーサイ側でアンドロスからの亡命者が軍団の指揮を執ったことを、トゥーキュディデースは記しています。なお、シュラクーサイ(シラクサ)は現在ではイタリアの都市ですが、当時はギリシア人による植民市でした。

そのような次第で、シュラクーサイ勢は市民を総動員して早朝、城を出てアナポス川河畔の沼沢地帯にやって来た(ちょうどこの時、シュラクーサイではヘルモクラテースを筆頭とする指揮官らが、統帥権を受継いだばかりのところであった)。そして重装兵の点呼をおこなうにあたって、その中からまず最初に選抜きの精兵六百をえらんだ。これらの兵士の使命は、アンドロスの亡命者ディオミーロスの指揮下に、エピポライの守備につき、そして又他方面からの要請があれば、即時隊形を持して救援にかけつけることであった。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻6、96 から

この「エピポライ」というのはシュラクーサイの背面に迫っている丘陵地帯で、ここをアテーナイ側に押さえられるとシュラクーサイの防衛が著しく不利になるような地点でした。アンドロス人の中でアテーナイによる支配に不満な者の中には、このように亡命してスパルタ側に味方した人々がいたようです。


英語版のWikipediaの「アンドロス」の項によれば、BC 411年に「アンドロスは、その自由を宣言」したそうです。私はトゥーキュディデースの「戦史」の中で、それに対応するような記事を見つけることが出来ませんでした。しかし、これはありそうなことでした。というのは、BC 413年にシュラクーサイを攻略していたアテーナイ軍が壊滅したからです。翌BC 412年には今までデーロス同盟に参加していたいくつかの都市が、アテーナイの軍事力の低下を確信して、それに叛旗を翻します。アテーナイはその鎮圧のためにエーゲ海を東奔西走することになりました。いくつかの都市は鎮圧出来ましたが、鎮圧出来ない都市もありました。こういう状況で、BC 411年秋、アンドロスの北隣のエウボイア島が全島規模でアテーナイから離叛します。おそらくアンドロスはこの時に一緒に離叛したのでしょう。

ペロポネーソス勢はアテーナイ船二十二艘を捕獲し、その乗組員の一部を処刑、他を捕虜にすると、勝利碑を築いた。その後間もなくして、かれらはオーレオスを除く(ここはアテーナイ人自身が占拠していた)エウボイア全島の諸邦をアテーナイから離叛させ、エウボイアの一般施政の方針を取決めた。
 エウボイアの悲報が伝えられると、かつてなき深刻な驚愕失望がアテーナイ人を襲った。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻8、95~96 から

同じく英語版のWikipediaの「アンドロス」の項によれば、アンドロスは「アテーナイの攻撃に持ちこたえた」そうです。BC 404年にはアテーナイは敗北するので、結局、アンドロスの反乱は鎮圧されなかったようです。とはいえ、今度はスパルタが勝者としてギリシア世界の覇権を握ったので、アンドロスは自由を謳歌することなく、スパルタの支配に組み込まれたであろうと想像します。


このあとのアンドロスは、再びアテーナイの支配を受けたり、マケドニアの支配を受けたり、あるいはプトレマイオス朝エジプトの支配下に入ったり、というふうにその時々の覇権国家の支配を受けていきます。その後のアンドロスについては目ぼしい話もないようなので、私のアンドロスについての話はここで終りにいたします。



(左:アンドロス出土のキュベレー女神の小像)