神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーテュムナ(8):デーロス同盟

BC 490年、ペルシア王ダーレイオスは軍を派遣してギリシア本土のアテーナイを攻撃しましたが、撃退されました。BC 480年にはダーレイオスの跡を継いだクセルクセース王が自ら陸海軍を率いて再度ギリシア本土に侵攻しました。しかし、これもアテーナイ沖で起きたサラミースの海戦でギリシア連合軍に大敗北を喫しました。ギリシア本土から撤退したペルシアの海軍部隊は翌年サモス島に集結して、イオーニア地方のギリシア人が再度反乱するのを警戒していました。

一方クセルクセスの水軍の残存部隊は、サラミスから脱出してアジアに達し、王とその軍勢をケルソネソスからアビュドスに渡らせた後、キュメで冬を過した。春の萌しとともにサモスに集結したが、ここには艦隊の一部が冬営していた。(中略)何分はなはだしい打撃を蒙った後であるので、それ以上西へ向うことはせず、それを強制するものもないままサモスに居坐り、イオニア船を加えて合計三百隻の陣容をもって、イオニアが反乱を起さぬように警備していた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、130 から


ここにはイオーニアのことしか書いてありませんが、キューメーからレスボス島に対してもにらみを利かしていたことでしょう。一方、ギリシア諸都市の連合海軍はデーロス島に集結しておりましたが、ここから東へ(つまりペルシアの勢力圏へ)進軍することを躊躇していました。しかしデーロス島ギリシア海軍の許に、ペルシア海軍の集結するサモス島からひそかに3名のサモス人が訪れて、ギリシア連合海軍の司令官レオーテュキデースに「サモスに来航してペルシアと戦って欲しい。そうすれば全イオーニアがペルシアに対して反乱するだろう」と要請しました。そこでレオーテュキデースが艦船をサモスに進めると、ペルシア側は合戦することを不利と判断して、サモスの対岸にある小アジアのミュカレーまで撤退し、そこのペルシア陸軍と合流することにしました。これを追ったギリシア連合海軍はミュカレーに上陸し、ペルシア軍に襲い掛かりました。すると今までペルシア側についていたギリシアの諸都市はペルシアに対して反乱し、ミュカレーの戦いはギリシア側の勝利になりました。


ペルシア支配下にあったメーテュムナを含むギリシア諸都市は、ギリシア海軍がサモスに戻った時にギリシアの軍事同盟に正式に参加しました。

かくしてサモスキオス、レスボスをはじめギリシア軍に加わって参戦していたその他の島の住民を、忠誠を守って決して叛かぬと確約誓言させた上で同盟国に加えた。


ヘロドトス著「歴史」巻9、106 から

この同盟の指揮は最初スパルタ王レオーテュキデースが取っていました。その後、スパルタ政府はレオーテュキデースに代えてパウサニアースを司令官に送りました。しかしパウサニアースの指揮手法が同盟軍の間で不評を買い、また、スパルタ政府もこの同盟に熱心ではなかったので、スパルタに代わってアテーナイが指揮を取ることになりました。アテーナイは同盟加盟国に軍資金か軍船の提供を課しました。軍資金は毎年徴収され、その資金はアポローン神とアルテミス女神の聖地であるデーロス島に保管されました。また、加盟国の代表会議もデーロス島の神殿において行われました。後世、この同盟はデーロス同盟と名付けられました。


メーテュムナがペルシアの支配から脱してから50年の間にデーロス同盟は徐々に、アテーナイが他国を支配する機構へと変質していきます。そしてそれに耐えられなくなった諸国は同盟から離脱しようとしますが、それを許さないアテーナイによって攻撃され、隷属国に落されていきました。

同盟から離脱したナクソス人に対してアテーナイは兵を進め遂に城攻めにして降伏させた。これはかつて同盟国であったものがその権限を奪われてアテーナイの隷属国となった最初の例であるが、これと同じ運命は残余の同盟諸国をも次々に襲うこととなった。
 離叛にいたらしめた原因にはさまざまのものが数えられるが、とりわけ、年賦金や軍船の滞納、またときには全面的な参戦拒否などが、主たる契機をなしていた。というのは、アテーナイ人は同盟諸国が義務を遂行することを杓子定規に要求し、このような重荷を担ったこともなく、また担う意志もない者たちにたいしては苛酷な強制を課し、同盟諸国を苦しめたからである。


トゥーキュディデース「戦史」 巻1・98~99より

しかしこの間メーテュムナはアテーナイに反旗を翻すことはありませんでした。それはアテーナイに刃向かっても勝てないと考えたためなのか、それともアテーナイの政策に賛同していたためなのか、よく分かりません。この頃メーテュムナは民主制をとっており、同じく民主制をとるアテーナイに共感していたのかもしれません。とにかくメーテュムナは、アテーナイに反抗しなかったために隷属国に落されることはありませんでした。そして独立国のままでペロポネーソス戦争(BC 431~404年)に遭遇することになります。