神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アカントス(8):その後のアカントス


(上:アカントスの遺跡)


アテーナイとスパルタの間の戦争(ペロポネーソス戦争)は、BC404年にスパルタの勝利で終結しました。その後しばらくはスパルタがギリシア世界の覇権を握りました。しかし、アカントスに対するスパルタの介入はそれほどなかったようです。


英語版のWikipediaの「アカントス」の項によると、この頃、カルキディケー地方にはカルキディケー同盟というものが存在していたようです。さらに英語版Wikiepdiaの「カルキディケー同盟」の項を調べてみると、この同盟はそもそもBC 432年にカルキディケー地方のいくつかの都市がデーロス同盟を離脱した時に、これらの都市が作ったもののようです。おそらくこれはポテイダイアがアテーナイに対して叛乱した事件を指しているのでしょう。この時にポテイダイアだけでなく、その周辺の都市もアテーナイに対して叛乱したのでした。これらの都市がポテイダイアと一緒にカルキディケー同盟を結成したようです。カルキディケー同盟のことはトゥーキュディデースの「戦史」には述べられていなかったと思います。私は今までその存在を知りませんでした。さて、英語版のWikipediaの「アカントス」の項によると、カルキディイケー同盟はアカントスに同盟に参加するよう要請したということです。アカントスはカルキス系植民市との長年に渡る争いがあったため、参加を拒否しました。カルキディケー同盟から2度目の参加要請があった時、同盟側は参加を拒否した場合の武力行使をちらつかせてきました。アカントスはスパルタに助けを求め、BC 382年、スパルタとアカントスはカルキディケー同盟の中心都市であるオリュントスを攻撃し、一時的に占領したということです。その後、同盟は復活しましたが、アカントスがそれに参加することはありませんでした。しかし、アカントスがカルキディケー同盟を攻撃したことが結果的にアカントスに悪く作用しました。カルキディケー同盟が弱体化したことにより、その北のマケドニアに対抗する力が弱まってしまったからです。BC 350年、マケドニア王ピリップス2世によってアカントスは占領され、カルキディケー同盟もBC 348年にピリップス2世によって解散させられました。


時代の流れは、独立したポリス(=都市国家)が活躍することを許さなくなってしまいました。いわゆるヘレニズム時代がやってきました。アカントスはマケドニア王国内の都市として存続しました。その後、BC 148年、マケドニアがローマによって滅ぼされるとアカントスはローマ領になりました。AD 1世紀の初め頃、この町の名前はラテン語に翻訳されてエリキウスと呼ばれるようになり、それが変化したイエリュソスという名前が現在の町の名前になっています。現代のイエリュソスの町の中心は、古代ギリシアの町のあった場所より若干北西にズレています。


以上でアカントスについての話は終りです。読んで下さり、ありがとうございます。