神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(6):ペルシアの脅威

キオスは創建時に王制を執り、その後、貴族制に移っていったらしいのですが、英語版のWikipediaによれば、その貴族制もBC 6世紀には、より民主的な国制を採用するようになったということです。それはアテーナイのソローンが作った国制に似たものだったそうです。つまりは一種の財産制だったのでしょう。



(左:ソローン)

BC 6世紀にキオス政府はアテーナイのソローンが作ったのと同じような国制を採用し、のちに選挙による議会とダマルコイと呼ばれる人々の判事を伴う民主的な要素を作った。


英語版Wikipediaの「キオス」の項より

アリストテレスの著作「政治学」には、キオスの貴族制が平民に対してあまりにも強圧的であったために崩壊したとありますが、それは上の貴族制からより民主的な国制への変化について言及しているのかもしれません。

しかし多くの寡頭制はまたそれが余りに主人の奴隷に対する支配のようなものであったため、その国民権に与かる者たちのうちそれに不満を感ずる人々によって解体された。その例としてはクニドスにおける寡頭制やキオスにおけるそれがある。


アリストテレス政治学、第5巻、第6章、16節」より


キオスは貿易で栄えました。エジプトに当時あったナウクラティスという町は、貿易のために、あるいは傭兵としてエジプトに来るギリシア人たちに居住地として、エジプト王アマシスが提供した町ですが、そこに建設されたギリシア神殿ヘレニオンの建立者としてキオスの名は、他の都市とともに上がっています。

アマシスはギリシア贔屓の人で、そのことは幾人ものギリシア人に彼が好意を示したことによっても明らかであるが、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレニオン(「ギリシア神社」)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の町ではキオステオスポカイアクラゾメナイの諸市、ドーリス系ではロドス、クニドスハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。


ヘロドトス著「歴史」巻2、178 から



BC 546年に東のペルシア王国が、小アジアのリュディア王国を亡ぼしました。小アジアからわずかな距離ではあっても海を隔てているキオスでは、ペルシアが海を越えてすぐにも攻めて来るとは考えなかったようです。さて、リュディア人で、ペルシアのリュディア征服後にペルシアに対して反乱を起こしたパクテュエスは、反乱に失敗して小アジアエーゲ海沿岸のギリシア人都市キューメーに逃亡しました。キューメー人はパクテュエスを島であるレスボスのミュティレーネーに送りました。しかし、ミュティレーネー人たちはペルシア側からの報奨金を当てにして、パクテュエスをペルシア側に引き渡そうとしました。そこでキューメー人たちはパクテュエスを今度はキオスに移送しました。ところがここでもキオス人たちがパクテュエスをペルシア側に引き渡そうとし、実際に引き渡してしまいました。その代償としてキオスは、ペルシアから小アジア側の一地区であるアタルネウスを割譲してもらったのです。キオスはこの時点ではペルシアを、交渉して何とかなる相手である、と認識していたようです。

キュメ人は(中略)パクテュエスミュティレネへ送った。ミュティレネでは、マザレスからパクテュエス引き渡しの要求を伝達されるに及んで、なにがしかの報酬を受けて、引き渡す工作をはじめた。その額がどれほどであったか、正確には判らない。その取引は成立しなかったのである。というのは、キュメ人ミュティレネ人がそのような画策をしていることを知ると、船を一艘レスボスに送り、パクテュエスをキオスへ護送したからである。しかしここでパクテュエスは、「アテナ・ポリウコス(「国家鎮護のアテナ」)」の神殿に避難したところを引きずりだされ、キオス人によってペルシア側へ引き渡されてしまった。この引き渡しは、キオスがその代償にアタルネウスの譲渡をうけるという条件で行われたものであった。このアタルネウスはミュシア地方にある一地区で、レスボスの対岸にある。ペルシア軍はパクティエスの引き渡しを受け、やがてキュロスにつき出すべく厳重な監視下においた。なお、かなり長い期間にわたってキオスでは、どの神の祭にも、犠牲の折にふりかけるひきわり大麦にこのアタルネウス産のものを用いる者は一人もなく、また供物の焼菓子にもこの土地産の穀物を用いず、この地区に産するものはすべて、あらゆる宗教儀式から隔離されたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻1、160 から