神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キューメー(8):アリスタゴラス

ペルシア王キューロスによってキューメーはペルシア支配下に置かれましたが、その後、ペルシア王はカンビュセース、ダーレイオスと王位が継がれていきます。3代目のダーレイオスの治世下でキューメーはギリシア人の僭主ヘーラクレイデースの子アリスタゴラスの支配下にありました。この頃のペルシア支配下ギリシア人の町々はキューメーに限らず僭主制を採っていました。そしてその僭主をペルシア王が支配するというように間接支配を行なっていました。


さてこのアリスタゴラスについてですが、あまり大したことは分かっていません。BC 513年のダーレイオスのスキュティア(今のモルドバからウクライナのあたり)遠征に他のギリシア人僭主たちとともに従軍していたことは分かっています。そして他のギリシア人僭主たちとともに、ダーレイオスの命で、ドナウ川に架けられた船橋を防衛する任務についていました。アリスタゴラスについて分かるのはこれぐらいのことで、この遠征でどんな活躍があったのかは記録に残っていないようです。


その後、BC 498年にイオーニアの反乱が起きた時、アリスタゴラスは他のギリシア人僭主たちとともにミーレートスのそばのミュウスにいました。彼らはミーレートスの僭主アリスタゴラス(ややこしい話ですが同名の人物です)が企てたナクソス遠征に参加したのでした。遠征自身は失敗し、ミュウスに退却して善後策を協議していたのでした。その時に突然ミーレートスの僭主アリスタゴラスがペルシアへの反乱を決意し、これらの僭主を逮捕してしまいました。

ミーレートスの僭主アリスタゴラスとその取り巻きたちの相談は)やはり離反することと決まり、一味の一人が船でミュウスへゆき、ナクソス遠征から帰ってその地に停泊中の船団を訪れ、乗り組んでいる指揮官たちをなんとかして捕えてみることになった。
 この目的のために、イアトラゴラスが派遣され、謀略によってミュラサの人でイバノリスの子オリアトス、テルメラの人でテュムネスの子ヒスティアイオス、エルクサンドロスの子コエス――これはダレイオスが恩賞としてミュティレネを与えた人物――、キュメの人でヘラクレイデスの子アリスタゴラスらその他大勢を捕えたが、こうしてアリスタゴラスは、ダレイオスに対抗する万般の策略をめぐらしつつ、いよいよ公然と反旗をひるがえしたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、37 から

次に、ミーレートスの僭主アリスタゴラスは自国民が進んで自分の謀反に加担してくるようにとの考えから、ミーレートスで僭主制を廃して民主制を敷くことを宣言しました。そして、イオーニアやアイオリスの他の町々についても民主制を確立すべく、捕えた僭主たちを、それぞれの町に引き渡しました。

 ミュティレネ人は、コエスが引き渡されるとすぐに、町はずれへ曳き出し、石打ちの刑に処してしまったが、キュメでは元の独裁者を放免した。他の町々も大方は、キュメの例にならった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、38 から


(上:キューメーの遺跡。航空写真。)



(上:キューメーの遺跡(Kymeと書かれているところ)とその付近にあるコンテナターミナル


キューメーの僭主アリスタゴラスは放免されたのです。放免されて彼はどうしたのでしょうか? ヘーロドトスの「歴史」にはこれ以降のアリスタゴラスの動向については書いていません。ともあれ、キューメーはイオーニアの反乱に参加しました。しかし、1年後のBC 497年にはペルシア軍に占領されてしまいます。

サルディスの総督アルタプレネスと、第三の指揮官オタネスとは、イオニアおよびこれに近接のアイオリスに出征を命ぜられ、イオニアではクラゾメナイアイオリスではキュメを占領した。


ヘロドトス著「歴史」巻5、123 から

ひょっとすると、ペルシアに再占領されてのちアリスタゴラスは再び僭主の座に戻ったのかもしれません。戦いはBC 494年まで続き、あとになるほど凄惨さを増してきました。キューメーは早めに戦線を離脱したため、戦争の被害が少なくて済んだようです。