神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ピュロス(8):王宮の破壊

前にもお話ししたように、線文字B粘土板は、宮殿の火事によって偶然に焼き固められたのであり、そのことによって現代まで形を留めることが出来たのでした。考古学的な証拠から、ピュロスだけでなくギリシア本土の各地の宮殿で、大規模な火事があったと推測されています。そしてこの火事は敵からの攻撃によるものだったようです。

この世紀(=BC 13世紀)の中頃には時代の流れは完全に変わってしまい、町々は焼け落ち、土地が捨て去られるという、お定まりの経過を辿ることになる。明らかにギリシア全土は動乱の世となり、壮大な王宮が次々と炎に包まれていった、ギリシアの命脈が絶えてしまったわけではないが、これ以降文明は著しく低下していった。石造建築や文字などの高度な文化も衰退し、人々は農耕を基盤とする生活に逆戻りしていったのである。


チャドウィック著「ミュケーナイ世界」より


(上:ピュロスの王宮の遺跡)


ピュロスの宮殿を襲った敵の正体が分かればよいのですが、その正体について未だ定説はありません。敵は海から来たようで、ピュロス出土の線文字B粘土板の中には、海岸線に戦力を配置していたことを示すものがあります。

真に危険なのは、敵がナヴァリーノ湾のすぐ北の(港として格好のヴォイゾキリアーを含む)砂浜、ないしは湾そのものに上陸した場合である。したがって第七地区には二個連隊が、第八地区(ナヴァリーノ湾?)には少なくとも三個連隊が配置されている。有効兵力の半分近くがこの地域に集中的に配置されているわけだが、これは敵の脅威に対処する上できわめて適切な措置である。(中略)すべては主力五個連隊の抵抗にかかっていたわけで、万一これが敗退すれば、もはや王宮を護ることは不可能となってしまう。
 現実に何が起ったか、それは謎である。王宮は略奪され炎上した。それが私たちの知るすべてである。王宮跡から人骨遺物が出土しないのは、そこで何ら抵抗がなされなかったことを示している。おそらく軍隊の敗北を告げる報が達するや否や、あるいはそれよりも早く、非戦闘住民たちは、おそらくわずかばかりの財宝を携えて山中の隠れ場に避難したのであろう。(中略)ともかく凄まじい事件が起こったことは確かであり、次の時代(後期ヘラス時代ⅢC期)にも引き続き人々が住んでいたと思われる遺跡がほとんど存在しないことが、それをよく物語っている。考古学的推定によると、人口は以前の10分の1程度に減少したという。


同上

この時代、つまりBC 1200年頃、ギリシアだけでなく東地中海沿岸の各地(小アジアパレスチナ、エジプト)で町々が破壊された跡や、戦乱の記録が見つかっています。考古学ではこれを「BC 1200年のカタストロフ」と呼んでいます。エジプトの記録には侵略者の民族名が残っています。すなわちBC 1200年頃の記録には以下の民族名が記録されています。それらは、エクウェシ人、ルッカ人、シェケレシ人、シェルデン人、テレシ人です。

(上:BC 1200年頃の記録)


さらにBC 1150年頃の記録にも、シェケレシ人とシェルデン人とテレシ人の名前が登場します。BC 1150年頃の記録では、これら3民族以外の民族名は共通せず、代りに登場するのは、デニェン人、ペレセト人、チェケル人、ウェシェシ人です。これらの民族が連合して、ピュロスを襲ったのでしょうか? その可能性はありますが、確たる証拠はありません。


一方、ギリシアの伝説に目を向けると、英雄たちが活躍した時代はヘーラクレースの子孫たちがペロポネーソス半島に侵入して征服したことによって終わりを告げたことになっています。ヘーラクレースの子孫たちはドーリス人を率いてペロポネーソス半島を征服したことになっており、この伝説によればピュロスの宮殿を破壊したのは、エジプト人がシェケレシ人とかシェルデン人とか呼ぶ人々ではなく、ネストールと同じギリシア人であるドーリス人なのでした。

彼ら(=ヘーラクレースの子孫)はメッセーネーについても、メッセーネーはヘーラクレースがピュロスを獲得した後、彼によってネストールに委託されたのだという、同様の説明をしました。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.18.7 より

かつてヘーラクレースがピュロスを占領したという伝説(「(3):ヘーラクレースの侵攻」参照)が、ピュロスを含むメッセーネー地方をヘーラクレースの子孫が領有する根拠にされたということです。

そこで彼ら(=ヘーラクレースの子孫)は(中略)ネストールの子孫をメッセーネーから追放しました。すなわち、トラシュメーデースの子シロスの子アルクマイオーン、ペイシストラトスの子ペイシストラトス、アンティロコスの子パイオーンの子らで、彼らと共に ペリクリュメノスの子ペンティロスの子ボロスの子アンドロポンポスの子メラントスもいました。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.18.8 より

人名ばかりで分かりづらいので、この記事については次回、もう少し説明します。