神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ピュロス(10):ドーリス人の侵入後

ネーレウス家の人々(ネーレイダイ)がドーリス人たちによってピュロスから追い出されたあと、ピュロスには人は住まなくなったのでしょうか? それともピュロスはドーリス人の町になったのでしょうか? 伝説はその後のピュロスについてほとんど伝えていません。この後ピュロスの名前が登場するのは、第二次メッセーネー戦争(BC 685年~BC 668年)に関連してのことであり、ピュロスのメッセーネー人は戦争を避けて北のエーリス地方の港町キュレーネーに向った、という内容の記事です。


その頃ピュロスにいた人びとはメッセーネー人と呼ばれていたのでした。メッセーネーというのは地方の名前で、ピュロスのある場所もメッセーネーに含まれていましたが、メッセーネーはピュロスよりはるかに大きい地域を指していました。ドーリス人たちがペロポネーソス半島南部を占領した時、メッセーネーを支配したのはクレスポンテースというヘーラクレースの子孫でした。では、メッセーネー人というのはドーリス系の人々なのでしょうか? そうではなくて、どうも、メッセーネーでは元からの住民と新来のドーリス人との間に融和が成り、両者が融合してメッセーネー人になったようです。そうだとすると、第二次メッセーネー戦争でピュロスから北に向かったというメッセーネーの人々の中には、ドーリス人侵入以前の人々の子孫もいたかもしれません。


ところで第二次メッセーネー戦争というのはメッセーネーとその東隣りのスパルタの間の戦争です。この戦争で最終的にスパルタはメッセーネーを占領し、メッセーネー人を農奴(ヘイロータイ)の身分に落しました。ピュロスの人々はからくもそこから逃れることが出来ました。その後、スパルタ人はピュロスの町を利用しなかったようで、古典時代にはピュロスは無人の地になっていました。よってピュロスの町は、第二次メッセーネー戦争におけるピュロスの人々の亡命によって終末を迎えたということになるのでしょう。


ドーリス人の侵入から第二次メッセーネー戦争までの歴史を簡潔に記した記事が、日本語版のウィキペディアにありましたので引用します。

クレスポンテス率いるドーリア人がアルカディア地方からメッシニア平原の北部に侵入すると、ステニクラルスを首都とした。さらにその後の支配はメッセニア地方全土に及んだ。(中略)


ドーリア人は、強い愛国心によって残った先住民を融合し、単一なメッセニア人としてまとめることに成功した。これはスパルタのドーリア人が、征服した先住民をヘイロタイやペリオイコイとしたのとは際立って異なる特徴である。しかし、メッセニア地方は肥沃な土地と良好な気候のために比較的豊かな地方であり、そのことが領土拡張主義を採る隣国のスパルタの欲望を掻き立てることとなった。


紀元前720年、スパルタ王テレクロスがメッセニア人に殺害されたことから両国間の戦争(第一次メッセニア戦争)が始まった。戦争はメッセニア王エウパエスと次王アリストデモスの活躍にもかかわらず、スパルタの勝利に終わった。紀元前648年から紀元前631年にかけて、アリストメネス指揮下でメッセニア人がスパルタに対して蜂起を起こした。(第二次メッセニア戦争


日本語版ウィキペディアの「メッシニア県」の項より

第二次メッセーネー戦争の経過をもう少し詳しく見ていきましょう。

反乱が起こった年に最初の会戦であるデレスの戦いは起こった。この戦いは引き分けに終わったが、この戦いで奮戦したメッセニア王族の末裔のアリストメネスは人々により王に選ばれた。しかし、彼はそれを辞退して全権を持った将軍となり、戦争の指揮を執った。翌年の猪塚の戦いではメッセニア軍はスパルタ軍に対し、勝利を勝ち取った。続いてアリストメネスはスパルタ市近郊に進撃し、それに対してスパルタ王アナクサンドロスは待ち伏せを仕掛けるも、逆に打ち破られた。


開戦から3年目、負け続けのスパルタはメッセニアに味方していたアルカディア王アリストクラテス2世を買収した。続く大掘割の戦いではスパルタ軍の攻撃と共にアルカディア軍は退却し、メッセニア軍は多くの指導者を失う大敗を喫した。


この戦いが転換点となり、戦況はスパルタ優位になった。一方、メッセニア側は守りを固めたヘイラ山に退却し、アリストメネスは自ら軍を率いて遊撃戦を展開した。


その間アリストメネスは敵に捕らえられたが、脱出してヘイラに戻った。メッセニア軍は10年間ヘイラを維持したが、スパルタ軍の攻撃を受け、遂に陥落し、メッセニア人は全員ではないにせよアルカディアへ退避した。こうして戦争はスパルタの勝利に終わった。


日本語版ウィキペディアの「第二次メッセニア戦争」の項より

ピュロスのメッセーネー人が町を捨てたのは、ヘイラ山の砦がスパルタ軍によって陥落した時でした。

ピュロスとモトネーの人々、および沿岸地域に住んでいた全ての人々は、ヘイラ占領に際して船で撤退し、エーリス人の港であるキュレーネーに向かいました。


パウサニアース「ギリシア案内記」4.23.1 より