神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ピュロス(11):その後のピュロス人

ピュロスのメッセーネー人が町を捨てたのは、ヘイラ山の砦がスパルタ軍によって陥落した時でした。

ピュロスとモトネーの人々、および沿岸地域に住んでいた全ての人々は、ヘイラ占領に際して船で撤退し、エーリス人の港であるキュレーネーに向かいました。そこから彼らはアルカディアのメッセーネー人に使者を派遣し、自分たちの勢力を団結させ、住むための新しい国を探すことを提案し、アリストメネースに彼らを植民地に導くように求めました。


パウサニアース「ギリシア案内記」4.23.1 より

アリストメネースとは、この反乱の指導者です。彼はメッセーネー人に選ばれてスパルタに対する反乱の指導者になりました。アリストメネースはヘイラ山の砦を11年間防衛し続けていたのですが、この砦が陥落した時に脱出して、この時はアルカディア(ペロポネーソス半島の山岳地帯)に退却していたのでした。キュレーネーに逃げてきたメッセーネー人たちは、アルカディアにいるアリストメネースに使者を送って、自分たちを率いて自分たちが住むべき新しい町の建設を指導するように求めました。アリストメネースは自分が生きている限りスパルタと戦うつもりだと答え、代わりに自分の息子たちであるゴルゴスとマンティクロスを彼らの指導者として送りました。


キュレーネーのメッセーネー人たちは、エーリス人の好意によりその冬をそこで過すことが出来ました。春になると彼らは自分たちがどこに向かうべきか議論を始めました。ゴルゴスの意見は、ザキュントス島を占領して、そこを根拠地として船でスパルタの海岸を攻撃し続ける、というものでした。弟のマンティクロスの意見は、スパルタと戦うことを忘れ、サルディーニャ島に向って、そこに植民市を建てる、というものでした。パウサニアースによれば、このような議論の間に、イタリア半島の先端にあるギリシア人の植民市レーギオン(現代のイタリアの都市レッジョ・ディ・カラブリア)の僭主アナクシラースがメッセーネー人たちに使者を送って、自分たちのところへ来るように誘ったといいますが、私はこの話は年代が合わないと思います。ただし、アナクシラースはメッセーネー人の血を引く者で、自分の祖先の住んでいた土地の名前にちなんでメッセーネーという名前の町をシケリア島(=シシリー島)に建設したということです(現代のイタリアの都市メッシーナ)。このメッセーネーの町はもともとザンクレーという名前の町でした。この町は複雑な経緯を経てメッセーネーに改称されています。

またザンクレーは最初、オピキア地方のカルキス系植民地キューメーから海賊としてやってきた者たちがこれを建設したのであるが、その後カルキス本国をはじめその他のエウボイア諸地からも多数の植民がやってきて、領土の配分にあずかった。(中略)だがその後、サモス人をはじめとするその他イオーニアからの諸邦人がペルシア人の侵攻を逃れてシケリアに渡来し、ザンクレー人を追放したかと思うと、間もなくかれらサモス人もレーギオンの独裁者アナクシラースの手で追放されてしまった。アナクシラースは自ら先導して諸部族混成の植民地をここに再建し、自分自身の祖先の故地の名にちなんでこの植民地をメッセーネーと改称した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6、4 から


キュレーネーにいたメッセーネー人は(あるいはその一部は)、おそらくイタリア半島に渡り、レーギオンの建設に参加したのでしょう。そしてその子孫であるアナクシラースが、メッセーネーの町を建設したのだと推測します。さて、ピュロスなきあとのピュロス人を追って、シシリー島のメッシーナまでたどり着きました。ここでピュロスについての物語を終えようと思います。


ギリシア神話で大きな役割をはたした町ピュロスは、ヘーラクレースの子孫によってその王家の人々が追放され、その子孫はアテーナイや小アジアギリシア人植民市に広まっていきました。ピュロスに残った人々はドーリス人と融合してメッセーネー人になりましたが、それらの人々も第二次メッセーネー戦争の際に町を捨てて、シシリー島や他の地方へと移住していったのでした。


最後に、ピュロスとの関連はあまりありませんが、第二次メッセーネー戦争の指導者アリストメネースのその後についても触れておきます。さて、当時ロドス島にイアーリュソスという名前の町がありました。その町の王ダマゲトスは、ギリシアで一番立派な男の娘を娶るようにという神託を受けました。ダマゲトスは、神託が指す「ギリシアで一番立派な男」とはアリストメネースのことであると解釈し、アリストメネースの3番目の娘を妻にと乞いました。アリストメネースは、ダマゲトスの願いを了承するとともに、これを機に娘とともにイアーリュソスに亡命しました。アリストメネースはイアーリュソスから小アジアのリュディア王国に渡ってリュディア王の援助を得る計画でした。しかし、リュディアに渡る前に病を得て、イアーリュソスで亡くなったということです。