トロイア戦争では、ギリシアの諸将の中にピュロス王ネストールという老将が登場します。老将といえども気力は壮年の者に劣ることなく、戦場に活躍する君侯です。よく自分の昔の手柄を自慢したり、人々に助言を与えたりします。ホメーロスの「イーリアス」第1書には、仲たがいをしたミュケーナイ王アガメムノーンと、ギリシア軍中随一の英雄アキレウス(彼はプティエーの王子)の間をネストールが取りなそうとする場面があります。
(上:ピュロス王ネストール)
こうペーレウスの子(アキレウスのこと)はいって、手の笏杖を地面へと投げつけた。
黄金の鋲を沢山鏤(ちりば)めたのを。そして自分は腰をおろした。
アトレウスの子(アガメムノーンのこと)も一方であい変らず いかりつづけた。そこで座中に
口前の甘いネストールが立ち上がった。ピュロス人らの声爽やかな語り手として、
その舌からは正に蜜より甘い 声音が流れて出るといわれ、
またその人は ものを思う人間の二つの世代を、これまでにもう見送って来た。
すなわちいと神聖なピュロスの郷(さと)で 彼より前に生れた者らや、また一緒に
育った者らを彼世(あのよ)に送り、いま三代目の人間どもを治めていたのが、
この時みなの為を慮(はか)って、会議の座に立ち 一同に向い言うようには、
「ああ、何ということか、大きな憂いがアカイア国を襲ったものだ、
(中略)
さればさ、まあ、私に任せなさい、二人とも私より年下なゆえ。
というのも以前私は、御身らよりさえ立ち優った 武士(もののふ)たちと一緒になって
暮らしたものだが、その人達さえ決して私を蔑(ないがし)ろにはしなかったのだ。
(中略)
しかもこれらの人たちと 私はピュロスから出かけて一緒に暮した。
アピエーの郷(さと)から遠いところへ、まさしく彼等の招きによってだ。
そして私は自力でもって撃ち合いをした。だがあの者らとは誰一人とて
現在地上に生きている限りの者は、戦うことも覚束なかろう。
しかもみな私の謀議に耳をかたむけ、私の言葉に従ってくれた、
されば御身らも肯(き)いたがよい、肯(き)くほうがずっと得なのだから。
(後略)」
このネストールの本拠地がピュロスで、この町はペロポネーソス半島の南西のメッセーネー地方に位置しています。ピュロスを舞台とする伝説はいくつもあるだけでなく、実際に先史時代の遺跡が20世紀になってから発掘されました。ここから先史時代(BC 13世紀頃)のピュロスが栄えていたことが分かりますが、古典時代(BC 5~4世紀)にはピュロスは無人の地になっていました。今回は、このピュロスの太古の伝説から古典時代までをご紹介したいと思います。
(上:ピュロスの宮殿の遺跡)
ピュロスを建設したのは、メガラ王だったピュラースという人物だということです。彼は叔父のピアースを殺してしまったためにメガラにいることが出来なくなり、希望者とともに町を出ました。そして、メッセーネー地方のピュロスの地にたどり着き、そこに町を建設したのでした。しかし、やがて海神ポセイドーンの息子であるネーレウスという人物がやってきて、ピュラースを町から追い出したために、ピュラースは北のエーリス地方に移住し、そこにもピュロスという名の町を建設したということです。今回、お話しするのはメッセーネー地方のピュロスのほうです。
では今度は、ピュラースを追い出したネーレウスの話をいたします。ネーレウスとペリアースは双子の兄弟で、その父親はポセイドーン、母親はテッサリアに住んでいたテューローでした。テューローはポセイドーンによって双子を産んだのですが、父親に叱られると思って子供を捨てたのでした。相手の男は神だといっても信じてもらえないからでした。こういう時に子供たちの父親であるポセイドーンが、テューローの父親のところに出向いて弁明でもすれば父親も納得するでしょうが、ギリシア神話の男神は基本的に男女関係においては無責任なので、何もしません。この子供たちを最初は牝馬が乳を与え、次に通りかかった牧人が拾って育てました。子供たちはペリアースとネーレウスと名付けられました。この二人は牧人のところで成人したらしいのですが、そのあたりは詳しく伝わっていません。
一方、テューローのほうはどうしていたかといいますと、父親が後妻としてシデーローを娶りました。このシデーローが継子のテューローを虐待して、テューローにみじめな暮らしを強いていました。やがて成人したペリアースとネーレウスの兄弟は、自分たちの母親がテューローであることを知り、母親を迫害するシデーローを殺害して母親を解放しました。その後、ペリアースとネーレウスは仲たがいし、ネーレウスは遠くペロポネーソス半島の西部にあるピュロスに移住したのでした。