神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(11):エウボイアの反乱(1)

その後エレトリアは、アテーナイ主導で組織されたデーロス同盟に参加します。しかしアテーナイはこの同盟を利用して勢力を伸ばし、他の同盟国を圧迫していきます。プラタイアの戦いから32年たったBC 447年、アテーナイはエウボイア島の南端の町カリュストスに1000名の植民者を送り込みました。このことはエレトリアをはじめとするエウボイアの諸都市にアテーナイへの警戒心を植えつけました。さらにはエウボイアの富裕階級で当時亡命していた者たちが、ボイオーティアのアテーナイからの離叛に加担して成功するという事件がありました。これらのことが要因になってBC 446年、エレトリアを含むエウボイア全島はアテーナイに対して反乱を起こします。

この事件後、ほどなくしてエウボイアがアテーナイ人の支配から離叛した。これを討つべくアテーナイの軍勢を率いてペリクレースがすでにエウボイアに渡ったとき、かれのもとに知らせが届き、メガラの離叛、ペロポネーソス勢のアッティカ侵入計画(中略)などが報じられた。ペリクレースは急遽エウボイアから軍勢を本土に戻した。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、114 から

同時に各方面からアテーナイに攻撃が加えられているところから見ると、彼らはおそらく最初から連携して行動したのでしょう。しかしアテーナイはこれらを撃退して再びエウボイアに軍を進めます。

アテーナイ勢はふたたび兵を送ってエウボイアに渡った。指揮者はペリクレースであった。そして全島を屈服せしめ、ヘスティアイア以外の諸都市を条約国にくみ従えたが、ヘスティアイアからは全市民を追放して、アテーナイ人の占有地とした。


同上

エウボイアのアテーナイに対する反乱は鎮圧されました。


その後のBC 431年、アテーナイを中心とするデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟の間でペロポネーソス戦争が始まります。エレトリアは、デーロス同盟国として、もっと実態に即して言えば、アテーナイの属国として、アテーナイの軍事行動に協力しています。しかし、BC 413年アテーナイとその同盟軍がシケリア島(=今のイタリアのシシリー島)で大敗を喫すると、デーロス同盟諸国に衝撃が走ります。もはやアテーナイの勢力が弱まったと判断したいくつかの都市が反旗を翻しました。



BC 411年、エレトリアもアテーナイに対して反乱を企てます。それは最初はエレトリアの対岸にあるボイオーティア地方のオーローポスからアテーナイ兵を駆逐する、という形で始まりました。アテーナイ兵を駆逐したのは主にボイオーティア諸国の軍でしたが、実はここにエレトリア人も加担していたのでした。前回と同じようにエレトリアはボイオーティア諸国と連携したのでした。

この冬もすでに終るころ、ボイオーティア勢は、アテーナイ側警備隊が駐留していたオーローポスを、内部からの手引きに乗じて占領した。ボイオーティア人の策謀に加担したのは、ひそかにエウボイアの離叛を画策していた、エレトリア市民や現地のオーローポス市民であった。というわけは、オーローポスはエレトリアを対岸にのぞむ位置にあり、これをアテーナイ側が掌握しているかぎりは、エレトリアをはじめのこりのエウボイア諸地も、甚大なる脅威をうけざるをえなかったからである。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻8、60 から

このあとエレトリアは密かにスパルタに援助を求めます。しかしスパルタの海軍はエーゲ海の東側での作戦にかかりきりで、しばらくはエレトリアの加勢をすることは出来ませんでした。スパルタを中心とするペロポネーソス同盟の艦隊がエレトリアの近くにやってくるのはその半年後でした。それまでの間、エレトリアは表面上アテーナイに恭順を示していました。アテーナイ側もエレトリア対岸のオーローボスから自軍が追い出された事件について、エウボイアが加担していることに気付いてはいませんでした。アテーナイはそれからの半年の間に政変が続き、同盟国に対する監視がゆるくなっていました。