神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エピダウロス(5):植民活動

エピダウロスの東側はサロニコス湾という海ですが、この湾の中にアイギーナという島があります。いつの頃からか分かりませんが、エピダウロスアイギーナをも支配するようになりました。その後、アイギーナエピダウロスと戦って独立しますが、ここではまだそこまで話を進めません。

エピダウロスアイギーナを支配していたことは歴史家ヘーロドトスが記しています。

 さてアイギナは、それ以前から当時に至るまでエピダウロスに従属しており、アイギナ人は自分たちの間の訴訟事件も、エピダウロスへ出かけて行って処理してもらっていたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、83 から

この伝承から、ドーリス人が西のアルゴスからエピダウロスへ、そして東のアイギーナへ、と、東へ東へと拡がっていく様子が伺えます。このまま東へいくと次はアテーナイになるのですがアテーナイはドーリス人の攻撃を撃退しました。おそらくそのためだと思いますが、その後のエピダウロスのドーリス人の植民活動はエーゲ海へと向かいました。



当時のエピダウロスの人々のうち、植民を望んでいた人々の思いを想像してみましょう。さて、この人々はどこに新天地を求めたらよいでしょうか? エピダウロスから比較的近いケオス島、キュトノス島、セリポス島、シプノス島のうちキュトノス島を除いた3つの島はアテーナイからの植民による町でした。キュトノス島だけはドリュオペス人の町でした。ドリュオペス人というのはもともとギリシア本土の中部に住んでいた種族で、ドーリス人によって追い出されたという伝承があります。さらにその東の島々もアテーナイやエレトリアからの植民市でした。これらの島々の住民を追出して、自分たちの植民市を築くのは大変そうです。さらにその先、メーロス島テーラ島はどうでしょうか? これらの島々はアテーナイの植民市ではありませんでしたが、スパルタの植民市でした。メーロス島への植民についてはよく分かりませんが、テーラ島への植民は伝承によれば、ドーリス人のペロポネーソス侵入からそれほど時が経たないうちに行われたようです。これについては「テーラ(2):テーラースの植民」を参照下さい。エピダウロスが植民を企てた頃、メーロステーラもすでにスパルタによって植民されていたのだと思います。それでこれらの島々も植民先の候補から外れることになったのでしょう。そうするとさらにその東の島々の様子がどうだったか気になってきます。



テーラ島の東にあるアナペー島は、アルゴー号の冒険の神話に登場する島です。イオールコスの青年イアーソーンが率いるアルゴー号は、東の涯コルキス(現代のジョージア)にある宝物、黄金の羊の毛皮を手に入れたのち、このあたりで濃い霧に悩まされたのでした。

クレータ海で彼らは濃い霧あるいは大嵐に遭った。祈によって、アポローンが海中に矢を射て、稲妻を放ち、この光によって彼らは小島を発見、そこに投錨した。思いがけなく島が現われたので(anaphanenai)、これにアナペー(Anaphe)なる名を与えた。そこで輝くアポローンPhoibos Apolonの祭壇を建て、供物を捧げた。アーレーテーによってメーデイアに与えられた12人の侍女が人々とたわむれながら揶揄した。そこから犠牲に際して女たちが冗談を言うこの島の習慣が生れた。ついでアイギーナ島に寄航。・・・・


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」の「アルゴナウテースたちの遠征」の項より

この島の歴史について英語版のWikipediaを当たってみましたが、この島の町がどこからの植民によるものかを書いてありませんでした。しかし、エピダウロスとの関連で気になる一節がありました。

島出土の碑文のいくつか(碑文Graecae XII、248行8)は、アポローン神を「アスゲラトス」と呼んでいます。これは、一部の学者によって、「輝く(エイグレテス)」の変形であると言われています。しかし、ある学者(Burkert 1992)は、この形容詞をシュメールの癒しの女神とアポローンの息子アスクレーピオスに結び付けています


英語版Wikipediaの「アナペー」の項より

ここで気になるのは「アポローンの息子アスクレーピオスに結び付けています」というところです。エピダウロスはアスクレーピオス信仰の中心地でした。アナペー島の碑文にアスクレーピオスに関わる記述があるならば、エピダウロスとの関係も可能性が出てきます。

(上:アナペー島の海岸)


そのさらに東のアステュパレア島は、英語版Wikipediaによればメガラ(アテーナイのすぐ西にあるドーリス系の町です)と「たぶん」エピダウロス人によって植民されたということです。そのさらに東にはコース島がありますが、コース島は確実にエピダウロスからの植民市でした。ここにはのちに大規模なアスクレーピオス神殿(アスクレーピエイオン)が建設され、古代の病院のような役割を果たすようになりました。これはエピダウロスのアスクレーピエイオンを真似たものでしょう。ここからは古代の有名な医師ヒッポクラテースが現われました(「コース(7):ヒポクラテース(1)」を参照して下さい)。おそらくこのようにしてエピダウロスの人々はコースに植民したのだと思います。そしてアナペー島やアステュパレア島にも植民したのだろうと推測します。


このエーゲ海の東側への植民の時代に関連して、私には不思議に思える記述があります。それは歴史家ヘーロドトスの書いていることなのですが、エピダウロスのドーリス人の一部がイオーニア人の祖先になっている、というものです。ヘーロドトスは、純粋なイオーニア人などいない、という自説を述べているところで、次のように述べています。

彼ら(イオーニア人)の重要な構成要素を成しているエウボイアのアバンテス人は、名前からいってもイオニアとは何の関係もない種族であるし、またオルコメノスのミニュアイ人も彼らに混入しており、さらにカドメイオイ人、ドリュオペス人、ポキス人の一分派、モロッシア人、アルカディアのペラスゴイ人、エピダウロスのドーリス人、その他さらに多くの種族が混じり合っているのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、146 から

これはどう理解したらよいのでしょうか? エピダウロスからの植民者たちはコース島に植民市を建設しましたが、これはもちろんドーリス系の都市と見なされていました。上の引用が述べているのは、そういうことではなくて、エピダウロスからの植民者の一部がイオーニア系の町への植民に参加したということでしょうか? この記述は、私たちがイオーニア系の人々の起源とかドーリス系の人々の起源とかを単純に推測することは危険であることを教えてくれます。この記述が正しければ、イオーニア人と呼ばれている人々の中にもエピダウロスのドーリス人の子孫がいたことになります。