神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(9):ラデーの海戦

イオーニアの反乱は6年続きました。最初はイオーニア側が優勢で・・・・と書きたいところですが、実際のところ戦況は最初から五分五分だったようです。後半はペルシア側が態勢を立て直したために、イオーニア側が押されてきました。やがて反乱の中心地ミーレートスにペルシアの艦隊が迫る事態になりました。

・・・・ミレトスには海陸からの大軍が迫っていた。ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトス以外の諸都市は二の次にして、ひたすらミレトスに向って進撃していたのである。海軍のうち最も戦意盛んであったのはフェニキア人であったが、彼らとともに最近征服されたキュプロスからの派遣軍やキリキア人、さらにはエジプト人も攻撃に加わった。
 ペルシア軍がミレトスをはじめとするイオニア各地に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを議決した。ラデとはミレトスの町の前面に浮ぶ小島である。


ヘロドトス著「歴史」巻6、6~7 から

ミーレートスの沖合にある小島ラデーに集結したイオーニアの艦船は353隻。その中の100隻はキオスの艦船でした。ここからキオスの海軍力が推し量られます。反乱の口火を切ったミーレートスは、といいますと、80隻を派遣しています。しかし、反乱を起こした張本人のアリスタゴラスはすでにミーレートスを脱出して逃亡していました。それでも残されたミーレートス市民は、反ペルシア、反僭主、民主化大義を守って反乱を継続していたのでした。一方、ペルシア側の艦隊は、600隻でした。


ペルシア側はイオーニア側の艦船の数を見ると、これは容易なことではないと判断し、ペルシア側に亡命して今回の戦いに従軍しているイオーニアの元僭主たちを集めて、イオーニア人たちに戦線離脱を勧めるように、要請しました。キオスの元僭主ストラッティスもその一人でした。彼は夜の間に使者をラデー島に集結しているキオス艦隊に送りました。使者はキオスの将軍たちに面会し

  • 「ペルシア王は言われる。もし、汝らが戦線を離脱するならば余は決してその者たちを反乱の罪に問うて処罰を加えることはない。しかし、もし汝らがこれに従わず、あくまで戦争に訴えるならば、その時は数々の災厄が汝らに降りかかるであろう。汝らは奴隷となり、男児は去勢され、女児は後宮に送られることになることを覚悟するがよい。」

と伝えました。しかしキオスの将軍たちは戦線離脱を拒否しました。


このような説得は、他のギリシア都市の軍に対してもなされていたのですが、その中でサモスの軍については説得が成功しました。


さて、戦端が開かれると、早々にサモスの艦船は戦線を離脱します。

さてフェニキアの艦隊が攻撃に向ってくると、イオニア軍もこれに対抗すべく一列の縦隊となって船を進めた。両艦隊はやがて近接して交戦した(中略)。伝えられるところでは、サモス派遣部隊はこの時かねてアイアケス(=サモスの元僭主)と打ち合せておいたとおり、帆を揚げて戦線を離脱しサモスへ帰航していったという。ただし十一隻の三段橈船だけは、その艦長が司令官の命に服せず踏みとどまって海戦を交えた。(中略)レスボス人も自分の隣りの部隊が逃走するのを見ると、このサモス軍にならい、同様にイオニア艦隊の大部分が同じ行動に出たのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、14 から


しかしキオスの艦隊は、それに動揺することはなく、ペルシア側に真正面から戦いを挑みます。

 踏みとどまって海戦を交えた部隊の内、キオス軍は卑怯な振舞いをいさぎよしとせず目覚ましい働きを示しただけに、痛手を蒙ることも最もはなはだしかった。キオスは前にも述べたとおり百隻の艦船を繰り出しており、各船にはそれぞれ市民から選抜された四十人の戦闘部隊が乗り組んでいた。同盟軍の多数が見方を裏切るのを目撃しながら、これら卑怯者と行動を共にすることをいさぎよしとせず、僅かに残った同盟軍とともに孤立しつつも船間突破を試みては海戦を交え、敵船多数を破壊したが、自らもその艦船の大部分を失うにいたった。キオス部隊は残った艦船とともに自国に逃れたが、乗船が損傷のため航行の自由を失ってしまったものたちは、敵の追撃を受けてミュカレ岬目指して逃れ、ここで船を陸に揚げて乗り捨てると、徒歩で陸地を行進していた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、15、16 から

ヘーロドトスの記述によれば、自分が始めた反乱ではないのに、一番真剣に、生真面目にペルシアと戦ったのがキオスでした。そしてそのために、損害も一番多くこうむったのでした。戦いがもはや不可能になった時、キオスの戦士たちは船を棄て、上陸し、隊列を組んで戦線を離脱したのでした。しかし、その彼らを不運が襲います。

このキオス人の一行はやがてエペソス地区に入ったが、そこに着いたのがちょうど夜で、たまたまこの土地の女たちがテスモポリアの祭を祝っているところであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、16 から

テスモポリアというのは、大地の豊饒を司る女神デーメーテールの祭で、デーメーテール・テスモポロス(掟をもたらすデーメーテール)というデーメーテールの通り名に関係しています。これは男子禁制の祭でした。そんなところに武装した戦士の集団がやってきたことが誤解の元になりました。

このときエペソスの市民たちは、これらのキオス人がどういう目に遭ったのか、何も聞き知っていなかったので、兵士たちが国内に入ってきたのを見ると、てっきり盗賊が女たちを狙って襲ってきたものと判断し、全市をあげて救援に出動し、キオス人を殺してしまった。


同上

上の引用で「エペソスの市民たちは」というところを「エペソスの男たちは」と読み替えてみて下さい。古代ギリシアにおける市民は、男性に限られるのでした。女性だけの集まりに突然、他国の武装集団がやってきたと聞いたのですから、エペソスの男たちが頭に血が上ったのも無理ありません。


ところでなぜ、エペソスの男たちがラデーの海戦のことを知らなかったのでしょう? それは、エペソスは当初イオーニアの反乱に参加していたもののすぐにペルシア側に占領されて、反乱から脱落していたからです。かえってそのおかげで、エペソスはその後の戦闘から遠ざかることが出来たのでした。エペソスは当時ペルシア占領下だったため、ラデーの海戦に参加することは出来なかったのでした。


キオスの戦士たちは、同族のイオーニア人たちが裏切る中で真剣にペルシアと戦った上に、誤解のためにイオーニアのエペソス市民に殺される、という不運をなめたのでした。踏んだり蹴ったりです。