神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テオース(7):その後のテオース

テオースはペルシアの支配下に戻りました。ペルシア王ダーレイオスは、イオーニアの反乱に加担したアテーナイとエレトリアに報復するために、BC 490年海軍を派遣しました。この時にテオースは従軍を強いられたかどうかよく分かりません。この時点では反乱終結から4年しかたっていないので、ペルシアにとって信頼できる兵力とは見なされず、従軍しなかったと想像します。この軍はエレトリアを陥落させ市民を捕虜にしますが、アテーナイの攻略には失敗し、帰国します。ダーレイオス王は再度の出兵を準備しますが、その途中で死んでしまいました。後を継いだ息子クセルクセース王が父親の遺志を継ぎました。クセルクセースはBC 480年、海陸の大軍を組織し、王自らがこれらの軍を率いました。クセルクセースの並々ならぬ決意がうかがわれます。この時のギリシア本土侵攻には、テオースも軍船と兵士を派遣しなければなりませんでした。


アルテミシオンの海戦ののちペルシア海軍がギリシア本土を南下する途中、岩にこんな文章がギリシア語で刻まれているのが発見されました。

イオニア人諸君、父祖の地に兵を進め、ギリシアを服属せしめんとするそなたらの行動は正しくない。そなたらにとって最善の道はわが方の味方となることである。それができぬというのならば、今からでもわれわれとの戦いには加わらぬようにし、カリア人にもそなたらと同様の行動をとるように頼んでもらいたい。もしまた、敵の束縛があまりに強く離反ままならず、右のいずれの行動をもとり得ぬのなら(中略)合戦の折にはことさら臆した行為に出てもらいたい。


ヘロドトス著「歴史」巻8、22 から

これはアテーナイの智将テミストクレースが、ペルシア軍の内部分裂を狙って刻ませたものでした。これを見て従軍していたテオースの将兵たちはどう思ったことでしょうか? 次に起きたアテーナイ沖のサラミースの海戦で、テオースがどのように戦ったのか、あるいは戦わなかったのか、ヘーロドトスは記していません。


サラミースの海戦はギリシア側の勝利に終わりました。それでもまだエーゲ海の東側はペルシアの支配下に留まっていました。翌年、ギリシア連合艦隊エーゲ海を東進し、エーゲ海東岸のミュカレーに上陸して、そこに駐屯するペルシア軍を駆逐しました。これがきっかけとなって、テオースを含むイオーニア全体はペルシアの支配を脱したのでした。テオースが独立を回復するのは、リュディア王クロイソスによる征服から数えて約80年ぶりのことでした。


しかし、時代はポリス(都市国家)の時代ではなくなっていました。この後、テオースはアテーナイが組織したデーロス同盟に参加します。デーロス同盟はもともと対ペルシアの軍事同盟だったのですが、テオースは他の多くの都市国家と同様に、軍船や兵士を同盟に提供することを嫌って、同盟への毎年の資金提供で済ませようとしました。このような風潮がデーロス同盟を変質させ、アテーナイが他国を支配するための組織になっていったのでした。

故国から離れることを嫌った多くの同盟諸国の市民らは、遠征軍に参加するのを躊躇し、賦課された軍船を供給する代りにこれに見合う年賦金の査定をうけて計上された費用を分担した。そのために、かれらが供給する資金を元にアテーナイ人はますます海軍を増強したが、同盟諸国側は、いざアテーナイから離叛しようとしても準備は不足し、戦闘訓練もおこなわれたことのない状態に陥っていた・・・


トゥーキュディデース「戦史」 巻1・99より

いくつかの同盟都市がアテーナイに対して反乱し、そして鎮圧されました。テオースはアテーナイに反抗するだけの力はなく、事態が進んでいくのを見ているしかありませんでした。


アテーナイを中心とするデーロス同盟とスパルタを中心とするペロポネーソス同盟は徐々に対立を深め、BC 431年には両陣営は交戦します。ペロポネーソス戦争の始まりです。BC 412年、アテーナイの勢力が弱体化するとにわかにテオース近辺のイオーニア諸都市でアテーナイからの離反が始まります。テオースは両陣営の板挟みになります。テオースはスパルタ側の陸上部隊がやってきて入城を要求されると、その頃アテーナイ艦隊がスパルタ側の艦隊に駆逐されていたので、拒むことが出来ず陸上部隊を入城させてしまいます。彼らは入城するとアテーナイがテオースのために築いた城壁を破壊しました。それからしばらくの間テオースは、スパルタ側の艦船を受け入れていました。しかしスパルタ側の陸上部隊が引き上げると入れ替わりにアテーナイの艦隊がやってきて、再びテオースはアテーナイと条約を結ぶことを強いられました。この戦争はBC 404年、アテーナイの敗北で終わります。


テオースはその後、(再び)ペルシア、マケドニアセレウコス朝シリアなど様々な国の支配下に置かれ最後にはローマの支配下に入ります。BC 3世紀には酒と悲劇の神ディオニューソスに捧げられた巨大な神殿が建てられましたが、ローマ帝国の時代でもこの神殿は有名だったということです。しかし、私にはこの時代のテオースについて述べる力はないので、ここまでにしたいと思います。読んで下さりありがとうございます。

(左:ディオニューソス神殿の跡)