神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(9):アルテミシオンの海戦

BC 480年、新しくペルシア王に即位したクセルクセースが大軍を率いてギリシア本土に進攻してきます。今回はダーダネルス海峡(当時の呼び方ではヘレースポントス海峡)を渡り、今のブルガリア経由で、北から海陸2つの部隊が歩を揃えて南下してきました。ギリシア軍は陸上部隊テルモピュライの隘路で、海上部隊をエウボイア島の北端アルテミシオンでペルシア軍を迎えました。

水軍に配置されたギリシア諸国を次に列挙すれば、先ず百二十七隻の船を出したアテナイ人があり(中略)カルキス人アテナイの提供した船二十隻に乗り組み、アイギナ人は十八隻、シキュオン人は十二隻、スパルタ人は十隻、エピダウロス人は八隻、エレトリア人は七隻トロイゼン人は五隻、ステュラ人は二隻、ケオス人は船(三段橈船)二隻と五十橈船二隻を提供した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、1 から


まず、ギリシア側の船3隻が南下するペルシア軍をいち早く発見しようと、スキアトス島付近を哨戒していたのですが、ペルシアの艦艇に発見され、うち2隻が捕獲されてしまいました。このことが知られるとギリシア側はおじけづき、ともかくエウリポス海峡を守らなければならない、ということでカルキスに移動しました。ところがこの日の晩から嵐が吹き始め、それは3日間続き、ペルシア海軍の船にかなりの損害を与えました。そのことをエウボイアの山岳に残しておいた物見の部隊が見て知り、カルキスにいるギリシア軍に知らせました。これを聞いたギリシア軍は、再びアルテミシオンへ引き返しました。

ギリシア側はアルテミシオンに、ペルシア側は大陸側のアペタイというところに碇泊して睨みあいました。ペルシア側は全艦隊の中から200隻を割いて、密かにエウボイア島の東側を南下して島をぐるっと回り、エウリポス海峡に達するように命じました。アルテミシオンのギリシア艦隊の退路を断つ計画です。


このあと両者は会戦します。

いっこうに敵が向ってこぬので、ギリシア軍は午後遅くなるのを待って、こちらからペルシア艦隊に攻撃をかけた。敵の手並とその戦術、特に船間突破の戦法を試したいと思ったからである。
 ギリシア部隊がわずかな船数で攻撃してくるのを見て、クセルクセス(=ペルシア王)軍の兵士も指揮官も、全く狂気の沙汰と罵り、容易に敵を撃滅できると考えて、彼らもまた船を乗り出した。(中略)この戦闘で両軍は悪戦苦闘を繰返したが結局勝敗決せぬまま夜に入り、この海戦はもの別れとなった。


ヘロドトス著「歴史」巻8・9~11 から

この日の夜、嵐が吹き荒れ、エウボイア島を周回してギリシア軍の背後を襲おうとしていた例のペルシア軍の200隻は難破してしまいました。戦闘は2日目も3日目も続きました。3日目はちょうど陸上のテルモピュライでもペルシア軍とギリシア軍が会戦することになっていました。この日のアルテミシオンの海戦は前よりもさらに激戦となりますが、またも引き分けになって戦闘を終えます。しかし、テルモピュライの隘路ではペルシア軍がギリシア軍を圧倒しました。その知らせがアルテミシオンに届くと、テルモピュライを突破されたらここで守る意味がないとしてアルテミシオンを撤退し、アテーナイ近海のサラミース島に集結することにしました。エレトリアが派遣した7隻の軍船もそれに従いました。母国を通り過ぎでアテーナイまで撤退することに後ろ髪を引かれる思いだったことに違いありません。


ギリシア軍がアルテミシオンを撤退した翌朝、ペルシア軍がエウボイア島の北端に上陸します。エウボイア島の北部にあるヒスティアイアという町の一住民が、わざわざペルシア側にギリシア軍の撤退を知らせたからでした。

ヒスティアイアの一住民が舟を駆り、ギリシア軍のアルテミシオン撤退の報をもって、ペルシア軍の陣営を訪れた。ペルシア人はその報に疑念を抱き、注進にきた男を監禁しておく一方、快速船数隻を派遣し状況を偵察させた。この者たちから実情の報告を得て始めて、ペルシア全艦隊は、朝の日の照り初(そ)める頃、一団となってアルテミシオンに向って航行し、ここに昼頃まで留まった後、ヒスティアイアに向った。ここに着くとヒスティアイアの町を占領し、北エウボイアのヒスティアイオティス地方の海岸に面する部落をことごとく蹂躙した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、23 から

このあとペルシア軍はエレトリアまで進駐したのでしょうか? そしてエレトリアの住民はそれ以前に避難出来たのでしょうか? ヘーロドトスはそれについて何も書いていません。ただし、ペルシアの大艦隊がヒスティアイアで3日間碇泊したのち、狭いエウリポス海峡(エレトリアはこのすぐそばにあります)を通ってアテーナイ沖に向ったことをヘーロドトスは記しています。