神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス(7):ペルシア軍への協力

ペルシア王ダーレイオスは、アテーナイに負けた遠征の雪辱戦を計画しました。しかしその遠征の準備中に死去し、後を継いだ息子のクセルクセース王が父親の遺志を引き継いで、ギリシアに攻め込むことになりました。前回のペルシア軍のギリシア本土侵攻から10年後のBC 480年のことです。今回の進軍路は前回とは異なり、エーゲ海の北岸に沿ってギリシア本土に達しようとするものでした。よって、今回はペルシア軍は北からやってきました。今回、ギリシア側のいくつかの都市国家は協同してペルシア軍を迎え撃とうとしました。しかしギリシア都市国家全部がペルシアの侵攻に対抗したわけではなく、日和見の国々も、あからさまにペルシアに味方する国々もありました。カリュストスは10年前に包囲された時の恐怖が忘れられず、ペルシアに従うつもりでいました。


ペルシア軍は陸上部隊海上部隊の2つに分かれていました。それらが海岸沿いに並んで進んできました。対するにギリシア軍は陸上部隊テルモピュライの隘路で、海上部隊をエウボイア島の北端アルテミシオンでペルシア軍を迎えました。カリュストスはどちらの部隊にも参加せず、戦いの帰趨を傍観していました。


まず、アルテミシオンで海戦が始まりました。この海戦は激戦となりましたが結局勝敗が着かないまま夜となり、戦いを中断しました。海戦は2日目も3日目も続きました。3日目はちょうど陸上のテルモピュライでもペルシア軍とギリシア軍が会戦することになっていました。この日のアルテミシオンの海戦は前よりもさらに激戦となりますが、またも引き分けになって戦闘を終えます。しかし、テルモピュライの隘路ではペルシア軍がギリシア軍を圧倒しました。その知らせがアルテミシオンに届くと、テルモピュライを突破されたらここで守る意味がないとしてアルテミシオンを撤退し、アテーナイ近海のサラミース島に集結することにしました。


ギリシア軍がアルテミシオンを撤退した翌朝、ペルシア艦隊はエウボイア島の北端の町ヒスティアイアに上陸しました。ここに3日碇泊したのちペルシア艦隊はエウリーポス海峡(ギリシア本土とエウボイア島との間の海峡。一番幅の狭い所では40mぐらいしかありません)を通過して、ギリシア連合軍を追ってアテーナイ沖に向いました。以下のヘーロドトスの記事から、カリュストスはアルテミシオンの海戦には参加していなかったが、その次の(アテーナイ沖の)サラミースの海戦にはペルシア側に立って参加したことが分かります。

私の考えるところでは、海路からアテナイに侵入したペルシア軍の勢力は、セピアス岬やテルモピュライに達した当時に比して弱化していなかったと思われる。暴風雨による被害、テルモピュライおよびアルテミシオン海戦における損失を補うものとして、私は当時まだペルシア王の遠征軍に加わっていなかった次の部隊を数えるからである。すなわちマリス人、ドーリス人、ロクリス人、それにテスピアイとプラタイアとを除いては全兵力を挙げてペルシア軍に加わったボイオティア人の各部隊、さらにカリュストス人アンドロス人、および先にその名を挙げた五島を除いて残り全部の島の住民がそれである。実際ペルシア王の軍勢がギリシアの中心部に進むにつれて、これに参加する住民の数は増していったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、66 から


さて、上の引用にあるように「ペルシア王の軍勢がギリシアの中心部に進むにつれて、これに参加する住民の数は増していった」のですから、ギリシア本土は全てペルシア領に編入されるかのような勢いでした。あくまでもペルシア軍に抗しようとするギリシア諸都市の連合海軍は、アテーナイ沖のサラミース島に集結していました。そこへペルシア艦隊が到着しました。その中にはカリュストスの船もありました。

発進の命が下ると、ペルシア軍は船をサラミスへ向け、平穏理にそれぞれの配置につき、戦闘隊形を整えた。しかしこの時すでに日は没し、海戦を行なうには明るさが足りず、翌日を期して戦闘の準備にかかったのである。
 一方ギリシア部隊は恐怖と不安に襲われ、ことにペロポネソス諸部隊の動揺ははなはだしかった。彼らは(中略)戦いに敗れた場合には島内に封鎖され、自国を無防備のまま放置して敵の包囲を受けるであろうと考えて不安を禁じ得なかったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、70 から


(上:サラミース島)