神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スキューロス(3):パンモン

トロイア戦争が終わったあとは、どの町についても伝説の内容が貧弱になり、闇に消えていってしまいます。スキューロスの場合は、ネオプトレモスがトロイアに向ったあとが、まったく伝えられていません。それでも何か残っているものはないか、と調べてみました。


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」には次の記事があります。

アウトメドーン
ディオーレースの子、トロイア遠征に際しスキューロス島の十隻の軍船の将。アキレウスの、その死後は彼の子ネオプトレモスの戦車の御者。この点から巧みな御者の代名詞となっている。


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」の「アウトメドーン」の項より

これによればアウトメドーンという人物、そしてその父ディオーレースがスキューロス人であるということです。そこで、もっと情報を得るためにホメーロスの「イーリアス」の中でアウトメドーンが登場する箇所を探しました。アウトメドーンは確かに登場するものの、彼がスキューロスからやってきた、という記述はありませんでした。日本語版のウィキペディアの「アウトメドーン」の項によれば、「アウトメドーンがスキューロスの軍勢を率いてきた」という情報はヒュギーヌスという人物の本に書かれてあるとのことです。この人物(ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス)は、紀元前後に生きていた人物で、その著作「神話集」は現在では粗雑な要約が残るだけだそうです。トロイア戦争後、アウトメドーンがどうなったか知りたいと私は思っていますが、この本の入手は難しそうですし、入手したところであまり情報を得ることが出来なさそうです。


私はここから先のスキューロスについては何も言えません。時代を下っていって、ようやく何かを言えるのはBC 480年、ペルシア王クセルクセースが海陸の大軍を率いてギリシア本土を北から南へ侵攻した時のことです。この時、ペルシア海軍に協力したのが、スキューロスの住民でパンモンという名前の人物でした。

この時、ペルシア軍はテッサリアのテルメ(今のテッサロニキ)に、対するギリシア諸国の連合軍はエウボイア島の北端アルテミシオンに布陣しておりました。ペルシアの先遣隊がテルメからスキアトス島に向った時、ギリシア側でも3隻の船がスキアトス島で警戒にあたっていました。この3隻はペルシアの先遣隊に発見され、逃走しました。しかし、3隻のうち2隻がペルシア側に拿捕されました。スキアトス島からのかがり火による信号でアルテミシオンのギリシア軍はこの事件を知りました。

アルテミシオンに布陣したギリシア軍は、右の出来事をスキアトス島からの発火信号によって知ると恐慌を来たし、エウリポス海峡の防衛に当るため、エウボイアの高地には哨戒部隊を残し、艦隊をアルテミシオンからカルキスへ移動したのである。十隻のペルシア船の内三隻は、スキアトス島とマグネシアの中間にある、通称「蟻岩」という暗礁に接近した。ペルシア軍はこの暗礁上に持参した石の標柱を樹てると、今や進路を脅かす障碍物は除かれたとして、艦隊の主力は全艦艇をもってテルメを発進したが、これは王がテルメを発って11日後のことであった。なお、この暗礁がペルシア艦隊の進路上にあることをペルシア方に教えたのは、スキュロス人のパンモンという男であった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、183 から


わざわざ暗礁の位置をペルシア側に教えたスキューロス人がいたわけです。おそらく彼は、この戦争はペルシアの勝利だと踏んでいたのでしょう。なお、この頃スキューロスに住んでいたのはドロペス族という、テッサリアの山岳地帯を故郷とするギリシア人の一派でした。スキューロスに渡ったドロペス族の多くは、プルータルコスによれば海賊を生業とする人々でした。おそらくそのため、他の地方のギリシア人とはうまくいっておらず、そのことがペルシアに味方した一因だったかもしれません。


スキューロス島にドロペス族が移住する前には、ペラスゴイ人が住んでいたということです。ペラスゴイ人ギリシア世界のいろいろなところに住んでいました。彼らはギリシア人とは異なる民族で、土地の原住民だということですが、謎の多い民族です。ヘーロドトスはギリシア人の少なからぬ部分がペラスゴイ人を祖先としていると言っています。スキューロス島にはペラスゴイ人が建設したとされる城壁が残っています。


さて、スキューロス人パンモンによって暗礁を避けることの出来たペルシア艦隊は南下を続け、アルテミシオンでギリシア軍と遭遇しました。両者は海戦を行ないます。この海戦は両者互角で、決着がつきませんでしたが、陸上ではテルモピュライでペルシア軍がギリシア軍を破って南下したため、ギリシアの艦船もそれを追ってさらに南下しました。そして両者は、アテーナイの沖でもう一度海戦を行ないます。のちにサラミースの海戦と呼ばれるこの海戦でギリシア側が快勝し、ペルシア軍は撤退したのでした。