神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(8):エレトリアの陥落

とうとうペルシア軍はエレトリア領に上陸し、町を包囲攻撃します。

ペルシア軍は来航して船をエレトリア領内のタミュナイ、コイレアイおよびアイギリアに着けた。これらの場所に船を着けるとただちに馬を船からおろし、敵軍攻撃の準備にかかった。
 しかしエレトリア側はもとより迎撃する意図もなく、町を放棄せぬ説が大勢を制してからは、何とかして城壁を守ることのみに専念していた。やがて城壁に対して激しい突撃が行なわれ、六日間にわたる間に双方とも多数の死者を出した。七日目に入って町の有力者であったアルキマコスの子エウポルポスとキュネアスの子ピラグロスの二人がペルシア方に寝返った。ペルシア軍は町に侵入し、かつてサルディスで彼らの聖域が焼き払われた報復とばかり、聖所を掠奪した上火を放ち、ダレイオスの命じたとおり市民を奴隷にした。


ヘロドトス著「歴史」巻6、101 から

エレトリアは陥落しました。イオーニアの反乱の最初の戦闘でサルディスの神殿が燃えてしまったことを理由にして、ペルシア軍はエレトリアの由緒あるアポローン神の神殿(これをアポローン・ダプネポロス神殿と言います)を炎上させました。当時の神殿はBC 510年頃に建設され、ひょっとするとまだ完成していなかったのかもしれません。この神殿よりのちに建設されたアテーナイのパルテノーン神殿と同じように屋根の破風のところに彫刻群が彫られていました。一方の破風はテーセウスとアマゾーン族の戦いを描いたもので、テーセウスとアマゾーン族の女王アンティオペーの像や女神アテーナーの像などがありました。反対側の破風にはギガンテス(巨人族)と神々の戦いの様子が彫られていたと推定されています。このような神殿が焼かれたのでした。


このアポローン・ダプネポロス神殿は現在では、土台の部分が残るのみです。(ペルシア軍が、ここまで破壊したという訳ではありません。)


さて、捕虜になったエレトリア人たちは、エウボイア島の沖合にあるアイギリア島に収容されました。ペルシア軍は彼らをその島においたまま、次の攻撃目標であるアテーナイに進みました。ここで有名なマラトーンの戦いが行われ、ペルシア軍が意外にも敗北します。しかし、敗北したからといって、エレトリア人の捕虜たちが解放されたわけではありませんでした。ペルシア軍は敗北したとはいえ壊滅はしておらず、アイギリア島に残したエレトリア人捕虜を収容してペルシアに帰国しました。捕虜になったエレトリア人たちはペルシア王国の首都スーサまで連行され、ダーレイオス王の面前に引き立てられました。

エレトリアの捕虜については、ダティスとアルタプレネスがアジアへ上陸すると、これをスサへ連行した。ダレイオス王はこれらのエレトリア人が捕虜になる以前は、エレトリア人がペルシア側の挑発もなしにペルシアに害を及ぼしたという理由で、彼らに激しい怒りを抱いていたが、彼らが自分の許へ惹かれてきて自分によって死命を制せられている姿を見ると、もはや害を加えることはせず、キッシア地方にあるアルデリッカという王直轄の領地に彼等を住まわせた。アルデリッカはスサからは二百十スタディオン(中略)の距離にある場所である。(中略)
 ダレイオス王はエレトリア人をこの地に定住させたのであるが、彼らは私の時代に至るまで、昔ながらの言語を保持してこの地に住んでいた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、119 から

捕虜たちは、その後をアルデリッカという名前の遠い異国の地で暮らすことになったのでした。上の引用中「私の時代に至るまで」というのはヘーロドトスの時代に至るまで、ということで、おそらくエレトリア人がそこに移住させられてから30~40年ぐらいたった頃と思われます。彼らは戦争が終わっても故郷に帰ることが出来なかったのでした。

とはいえ、エレトリアの主要な人々が全て捕虜になったわけでもないようです。この戦争から10年後、もう一度ペルシア軍はギリシアを攻める(第二次ペルシア戦争)のですが、その時にエレトリアはペルシアを迎え撃つための軍船を派遣しています。ということは、エレトリアは壊滅したわけではなかったようです。