神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア(10):サラミースの海戦

アテーナイ沖にサラミースという名前の島があります。トロイア戦争の英雄の一人アイアースの出身地と伝えられる島です。このサラミースとアテーナイの間の海域にギリシアの水軍は集結しておりました。エレトリアが派遣した7隻の軍船もそこに参加していました。ここでギリシア軍は奇跡的な勝利を得るのですが、このサラミースの海戦でエレトリア軍がどのように活躍したかについては記録がないようです。以下、ギリシアの水軍全体にどのような出来事があったかをご紹介して、その中でエレトリアの人々がどう振る舞ったかを想像していきたいと思います。

(上:サラミース島)


サラミースに集結したギリシアの水軍の指導者たちは、一旦はここで戦うことを決議しました。しかし、アテーナイがペルシア軍に占領されたのを見て、ペロポネーソス半島の町々から派遣された者たちはここを捨ててペロポネーソスで決戦を挑むべきだと言い始めました。エレトリアにとってはとんでもないことです。エレトリアにペルシア軍が進駐したのかどうかはよく分かりませんが、たとえまだ進駐していなかったとしても、もはやそれを防ぐ者は誰もいないという状況です。ここサラミースで決戦しなければペルシア軍からエレトリアを救うことは出来ないと思われました。


このことはアテーナイにとっても同様でした。アテーナイの知将テミストクレースはこのような状況を見て、秘かに男をペルシアの陣中に送り、ペルシアに内通するふりをして、サラミース島を包囲するように進言させたのでした。アイスキュロスの悲劇「ペルシアのひとびと」はペルシアの首都スーサを舞台にして、そこにペルシア軍の敗戦を知らせる使者がやって来て王の母アトッサに報告する様を描いています。その使者の言葉として上の状況を以下のように述べています。

はじめ一人のギリシア人が、アテナイの陣営からわれらを訪れ、御子クセルクセス王に申したには、暗い夜の闇がちかづけば、ギリシア人らは陣をあとに船の櫓座にとびのって、めいめい勝手に梶をとり、逃亡して身をすくおうとするだろう、と。
 王はギリシア人の策謀とも、神々のねたみとも察したまわず、これを聞いてただちに船勢をひきいる諸公に、お布れをだされたのでございます。太陽のきらめく光が地をこがすのを止め、高空に夕闇がせまるのを合図に、船の陣列を三重にくみかため、残りの船でアイアスの島のまわりを取りまき、湾の入口と波さわぐ航路の見張りをするように。


ギリシア悲劇 アイスキュロス」の「ペルシアの人々」 久保正彰訳より

ペルシア王クセルクセースは勝利を確信していました。さきの使者は次のように述べています。

数だけを申せば、疑いなくわれらの優勢でした。ギリシアの船はすべて数えて三百艘、べつに十艘くわわっておりました。クセルクセス王のもとには、この眼で数えて千艘ほど、そのうちとくに速い船だけでも二百七艘おりました。このとおり、数のうえではわれらの勝ち、よもやこの戦いにおくれをとるとは、お考えにならないでしょう。しかし事実はこのとおり、神はわれらをたおし、運命のちがいを秤りわけた。神々がパラス女神の都(=アテーナイのこと)を救ったのです。


同上

しかし、ギリシア側は却って包囲されたことで、ここで決戦することで団結したのでした。これこそ知将テミストクレースが狙ったことです。しかもテミストクレースは包囲されたことを自分から言えば疑われるので、他の人が気づくのを待つという周到さでした。きっとエレトリアの将兵はこの成り行きをうれしく思ったことでしょう。エレトリアの将兵の意気は上がったと思います。


では、その後に起きたことを、さらにこの使者の口から聞いてみましょう。

こうして船の長(おさ)たちは夜どおし、乗組みを櫓座につけておいた。夜はふけていったが、どうしたわけか、ギリシア人がひそかに漕ぎだす様子はさらにない。
やがて白馬にまたがる朝の日が、光さやかに大地をあまねく照らしたとき、はじめてギリシアの陣営から声たからかな喜びの歌がわきあがり、島の岩肌がひときわ高いこだまを返した。うらをかかれた恐怖が、われらの胸をつきさした、なぜなら、そのときかれらがうたったパイアン(戦勝祈願の祈り)は、戦いにのぞむ勇気がりんりんとして、逃げ腰ではなかったからです。ラッパのひびきは火のように敵勢を燃えたたせ、号令一下、ざわめく櫓脚はいっせいに閃めき、たちさわぐ波底をうった。息つくまもなく、全船列がわれらの視野にくっきりと浮かびでた。まず右翼の陣が一糸みだれず整然と船あしをすすめ、ついで全船団がすすむとみえるや、いっせいに叫ぶ喚声が耳をうった。
「おおヘラスの子ら(=ギリシア人のこと)よ、すすめ!
 祖国に自由を!
 子や妻に自由を!
 古い神々の御社や父らの墓地に自由を!
 すべてはこの一戦できまるのだ。」


同上

この中にはエレトリアの軍船7隻もいました。

最初の体当りはギリシアの船、当てられたポイニキアの船は高い舳先を叩き折られた。船は船をねらって突進した。はじめはペルシアの船勢も舳先をそろえてくいとめていた。だが無数の船がせまい水路につめかけたため、互いに助けあうことはおろか、味方どうしが青銅の角でうちあう破目となり、船べりの櫓櫂はことごとく破損した。ギリシア勢は賢くもその難をさけ、われらを包囲して、まわりから体当りをつづけた。
(中略)
クセルクセス王は底知れぬ敗北の悲惨をみたまい、高い嘆きをあげられました。王は海辺にちかい見晴しのよい丘に玉座をもうけておられたのです。御衣を引裂き、はげしい悲嘆をかくそうともされず、王はただちに歩兵に命をあたえ、無惨な退却をはじめられたのでございます。


同上

ギリシアの水軍はペルシア軍を撃退することが出来ました。その後、母国エレトリアに帰国した兵士たちは母国で何を見たでしょう? 破壊された町を見たのでしょうか? それともペルシア軍はエレトリアを素通りしてくれたのでしょうか? 私は情報を見つけることが出来ませんでした。


一年後、ペルシアの将軍マルドニオスが陸軍を率いて再度侵攻してきます。これをプラタイアの地で迎撃するギリシア諸国の陸軍にもエレトリアは兵を派遣しています。そして、彼らはまたしてもペルシア軍を撃退したのでした。