神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キューメー(9):その後のキューメー

その後のBC 490年、ダーレイオスによる最初のペルシア戦争が起こりますが、そこでキューメーがどのようになったのか記録を見つけることが出来ませんでした。BC 480年のクセルクセース王による2回目のペルシア戦争の時に、キューメーにはペルシア政府の総督がいたことが分かっています。アルテミシオンの海戦の際に、その総督の率いる艦隊はペルシア海軍本体から離れてしまい、その上ギリシアの軍船を味方の艦船と思い違えてしまい、ギリシア軍に捕えられています。

ペルシア艦隊の中で十五隻がたまたま本体から遥かに遅れていたが、彼らはアルテミシオンに布陣したギリシア艦隊の船影を認め、これを味方の艦船と思い誤り、敵軍の真只中へ乗り入れてしまった。この船団の指揮に当っていたのは、アイオリスのキュメの総督であったタマシオスの子サンドケスであった(中略)。ギリシア軍はペルシアの艦船がこちらに航行してくるのを認めると、彼らが錯誤を犯しているのを知り、彼らに向って船を進め易々と捕獲してしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、194 から

ペルシア政府がキューメーに総督を置いて直轄支配に切り替えたのは、キューメーを軍港として利用していたからでした。サラミースの海戦で敗退したペルシア艦隊の残存部隊は、キューメーまで逃げ帰って、そこで越冬しています。

一方クセルクセスの水軍の残存部隊は、サラミスから脱出してアジアに達し、王とその軍勢をケルソネソスからアビュドスに渡らせた後、キュメで冬を過した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、130 から



(上:キューメーの遺跡(Kymeと書かれているところ)とその付近にあるコンテナターミナル


現在のキューメー付近は貨物のコンテナ用の港になっていますが、今から2500年前の冬にはペルシアの大艦隊がこの港にずらりと碇泊していたのでしょう。ここで越冬したということはキューメーには船を修繕する設備や、兵隊を収容できる施設などがあったということでしょう。キューメーの町は、現在遺跡として残っている部分よりずっと広く海沿いに拡がっていたのだろうと想像します。


その後のギリシア連合軍の攻勢により、キューメーもペルシアの支配を離れ、デーロス同盟に参加したのだと想像しますが、そのような記述を見つけることが出来ませんでした。さらにその後BC 431年からはペロポネーソス戦争が始まりますが、そこでのキューメーの動きもよく分かりません。


ペロポネーソス戦争の終結後のBC 400年頃に生れたキューメー出身の歴史家エポロスは、自分の作品の中で歴史上の諸事件を述べるたびに、同胞のキューメー人たちは、その時傍観していて平和を維持していた、と付け加えていたそうです。つまり、キューメーは歴史上で目立った動きをしてこなかったのでした。


私のキューメーに関する話のネタも尽きてきました。最後に、この歴史家エポロスについてご紹介してキューメーの話を終わります。読んで下さりありがとうございます。


エポロスはBC 400年頃キューメーで生まれましたが、やがてアテーナイの雄弁家で修辞学者のイソクラテースに弟子入りしました。イソクラテースの弟子にはキオス出身のテオポンポスもいました。イソクラテースは、この2人の弟子を馬になぞらえて「イソクラテースには拍車が必要だが、テオポンポスにはハミ(馬の口に含ませる金具)が必要だ」とよく言っていたと伝えられています。つまり、イソクラテースは上達しないのでもっと練習するようにはっぱを掛ける必要があるが、テオポンポスは練習をやり過ぎるので制御する必要がある、という意味です。エポロスは弁論術ではあまり進歩がなく、やがて師匠のイソクラテースの助言により、歴史研究の道に進んだということです。彼は神話に属する話を避け、ヘーラクレースの子孫のペロポネーソス帰還から始めてBC 340年までの歴史を記した29巻の歴史書を作りました。彼はまたギリシア人で初めて世界史を書いた人としても知られています。ところでエポロスの晩年は、マケドニアアレクサンドロス大王がペルシアへの遠征を始めた頃に当っています。アレクサンドロス大王は遠征に当って、歴史家として世に知られたエポロスを招聘して、遠征の公式の歴史記録者として従軍することを依頼しましたが、エポロスは老齢を理由に辞退しました。その後まもなくエポロスはこの世を去りました。