キューメーはアイオリス地方の町々のうちで一番大きな町でした。アイオリス地方を下の地図で示します。
ギリシア人の一派にアイオリス人というがあり、ギリシアの古典時代にはギリシア本土の東北と小アジアのエーゲ海沿いの北側に分布していました。小アジア側のアイオリス人はギリシア本土からの植民と推測されています。下の地図で黄色に塗られている地域がアイオリス方言を話す人々、つまりアイオリス人の分布していた地域です。この地域のうち、小アジア側の地域がアイオリス地方と呼ばれていました。
ヘーロドトスは、アイオリス地方の、大陸側の町々(島にある町々を除くという意味)を以下のように挙げています。
次にアイオリスの町としては、プリコニスの異名のあるキュメ、レリサイ(ラリッサ)、ネオン・テイコス、テムノス、キラ、ノティオン、アイギロエッサ、ピタネ、アイガイアイ、ミュリナ、グリュネイアがある。これらの十一の町は古くからアイオリスの町であった。数が十一であるのは、その一つであったスミュルナが、イオニア人によって切り離されてしまったからで、もとは大陸のアイオリス都市も数は十二あったのである。これらのアイオリス人が町を築いた土地は、イオニア人の土地よりも豊沃ではあるが、気候の点ではイオニアほど恵まれていない。
ヘロドトス著「歴史」巻1、149 から
上の記事によれば、キューメーはプリコニスという別名を持っていたということです。岩波文庫のここの箇所に訳注があり、それには
キュメに植民した者がもと住んでいたと思われる本土ロクリス地方の山プリキオンに由来するものらしい。
同上の訳注より
とあります。すると、キューメーはロクリス地方からの植民によって建設された、ということになるようです。英語版のWikipediaの「キューメー」の項にも、似たような記事がありました。
この町は、トロイア戦争後にギリシア中央部のロクリスからのギリシア人によって、彼らがヘルムス川の近くのラリッサのペラスゴイ人の城塞を最初に占領したのちに建設されました。
ただし、この英語版のWikipediaの「キューメー」の項は全体の記述の構成が変で、私はあまり信頼を置いていません。中には注目すべき情報もあるのですが・・・・。
キューメーについてはもっと神話的な建設伝説もあり、それによればアマゾーン族のひとりであるキューメーという女性がこの町を建設した、ということになっています。のちにキューメーで鋳造された貨幣には、このアマゾーンのキューメーの横顔が刻印されています。
(左:アマゾーンのキューメー。BC 2世紀のコイン)
現在のキューメーは、トルコ領のNemrut Limaniで、近代的な貨物用の港湾になっているようです。