USAのWikipediaでパロスの大理石を調べようとして検索の窓にParian marbleと打つと、候補としてParian marbleとParian Marbleの2つが表示されます。Parian marbleは普通の意味でのパロスの大理石を指しますが、Parian Marbleのほうを選択するとParian Chronicle(=パロスの年代記)の項に飛びます。このパロスの年代記というのは大理石に彫られた碑文で、BC 1582年からBC 299年までの出来事について年代順に書かれているものだということです。このパロスの年代記の別名がParian Marble、つまりパロスの大理石、だったわけです。
この碑文の存在を知った時に私は「こんなものがあるんだったら、最初からこれを見ておけば、パロスについての「神話と歴史の間」を簡単に書けたのに」と、一瞬後悔の念がよぎりました。BC 1582年といえばギリシアでは完全に神話の時代です。当時のパロス人が自分たちの歴史について、特に神話の世界から歴史への接続をどのように認識していたかを、生で知ることが出来る、と思って期待しました。なお、この石碑は、BC 263年頃(ヘレニズム時代にあたります)に書かれたと推定されています。
以下はハーバード大学のギリシア研究センターのウェブサイトの中のAndrea Rostein教授の「パロスの大理石にある文学史」に載っている英訳から、その一部を私が翻訳したものです。私の興味は神話・伝説から歴史に移るあたりをどう叙述しているかです。トロイア戦争は完全に神話の話なので、そこから見ていきました。
- ギリシア人がトロイアと戦争を行なった時から、954年(= BC 1218/7年)、メネステウスがアテーナイ王であり、治世13年目であった。
- トロイアが征服された時から、945年(=BC 1209/8年)、メネステウスがアテーナイ王であり、治世22年目のタルゲリオン月の終りから数えて7日目であった。
- オレステースと・・・アイギストスの娘エーリゴネーとアイギストスの・・・と・・・・の間でアレオパゴスで行われた裁判、それにオレステースが勝った・・・・時から、944?年(=BC 1208/7?年)、デーモーポーンがアテーナイ王であった。
- テウクロスがキュプロスにサラミースを建設した時から、938年(=BC 1202/0年)、デーモーポーンがアテーナイ王であった。
ここまでは、普通、ギリシア神話として扱われる記述です。ここまで読んで分かるように、この年代記では、各出来事について、それが起きてから碑文が彫られた時点まで何年経ったか、と、その時のアテーナイの王の名前が記されています。
この年代記ではアテーナイ王の名前は出ているのに、パロスの王については言及がありません。それに出来事の内容もパロスについての伝説や歴史ではありません。これらの点で私の期待はしぼんでしまいました。それでもエーゲ海の神話と歴史の間について何か情報を得ることが出来ないか、と思って読み続けました。
その次の記述は、以下のようになっていました。
- ネーレウスがミーレートスを建設し・・・エペソス、エリュトライ、クラゾメナイ、プリエーネー、レベドス、テオース、コロポーン、ミュウス、ポーカイア、サモス、キオス、そして、パンイオーニオン神殿が出来た時から、813年(=BC 1077/1075年、1087/1年)、メドーンがアテーナイ王であった。
同上
これはイオーニア人の植民の話です。暗黒時代を引き起こしたと言われるドーリア人の侵入、いわゆるヘーラクレースの子孫のペロポネーソス帰還の話は登場しません。また、イオーニアの12の都市の建設を同じ年に属させているところは雑に感じます。これらの点が残念です。
この次は
- 詩人ヘーシオドスが現れた時から・・・年(=BC 937/5?年)、・・・・がアテーナイ王であった。
- 詩人ホメーロスが現れた時から、643年(=BC 907/5年)、ディオグネートスがアテーナイ王であった。
同上
となっていて、ヘーシオドスとホメーロスの話になっています。もうこのあたりは歴史に近くなってきます(碑文が主張する年代は信用できませんが)。私はイオーニア人の植民の話とホメーロスやヘーシオドスの話の間について何か情報がないか期待したのですが、それはありませんでした。
結局、私は「パロスの年代記」から「神話と歴史の間」に新しい情報を見つけることは出来ませんでした。とはいえ、これはこれで当時のギリシア人の神話と歴史の間の接続の仕方についての認識を知るための資料として貴重なものだと感じました。
さて、パロスについてBC 263年頃までたどってきたので、パロスの話はここで終わりにしたいと思います。お読み下さり、ありがとうございます。