神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キューメー(6):BC 7世紀と6世紀

BC 7世紀のキューメーの動向はよく分かりません。キューメーの周囲に目を向けますと、まずキューメーの西側ではレーラントス戦争がBC 650年頃まで断続的に続いていました。これはエウボイア島にある2つの町、カルキスエレトリアの間の戦争ですが、ギリシアの多くの町々がこの戦争に巻き込まれたと言われています。この戦争にキューメーが巻き込まれたのかどうかは分かりません。ただ、この戦争によって、それまで貿易活動で先頭を走っていたカルキスエレトリアは共に勢力を落とし、ミーレートスサモスのような小アジア沿岸の町々が代わって台頭するようになりました。このような環境の変化はキューメーに影響を与えたかもしれません。


また、BC 650年頃にはパロス人がタソス島に植民市を建設しています。この頃はギリシア人の植民が盛んな時代でした。キューメーも30前後の植民市を建設したそうです。


一方、東側に目を向けるとBC 7世紀のほとんどの時期にキンメリア人小アジアに居座っていました。キューメーが同盟を結んでいたプリュギアのミダース王がキンメリア人に攻められて自殺したのはBC 695年のことと推定されています。プリュギア王国自体はその後の存続しましたが、勢力を落としました。一方、リュディアはギュゲースが王位を奪い取ってから勢力を伸ばして、たびたび小アジアエーゲ海沿岸のギリシア人都市を攻撃しましたが、ギュゲースもまたキンメリア人に攻められて戦死しました。BC 652年のことと推定されています。同じ頃キンメリア人はキューメーより南のイオーニア系の都市エペソスを襲いました。当時エペソスに住んでいた詩人のカリノスはそのことを歌っています。

今や凶暴なキンメリア人の軍勢が攻め寄せる。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」から

キンメリア人はキューメーにもやってきたのでしょうか? 根拠はあまりないのですが、私はやって来なかったのではないかと想像しています。


キューメーの東側でBC 7世紀に起こったもうひとつの変化は、プリュギアに代わってリュディアが小アジアの支配者になったことです。BC 7世紀の間にプリュギアはリュディアに服属します。そしてBC 7世紀末にはキンメリア人の駆逐に成功します。BC 6世紀に入るとリュディアは最盛期を迎え、その時の王クロイソスはキューメーを攻撃し、支配下に収めました。

クロイソスはエペソスに先ず手を染めたのであったが、ついでイオニア、アイオリスの全都市にさまざまな言い掛かりをつけて攻撃した。重大な理由の見付かるっときは、それをもち出すのであるが、時にはとるに足らぬ口実を盾にすることもあった。


ヘロドトス著「歴史」巻1、26 から


ある伝説は、この頃(BC 560年頃)ミュティレーネーの政治家にして七賢人の一人であったピッタコスの息子がキューメーで殺された、と述べています。何を伝えたい話なのかよく分からないのですが、その話を紹介します。

彼(ピッタコス)の息子のテュライオスがキュメの町の床屋で腰をおろしていたとき、一人の鍛冶屋が斧を振りおろしてその息子を殺してしまった。キュメの町の人たちがこの殺害者をピッタコスに引き渡すと、彼は事の次第を聞いたうえで、その者を放免してやりながら、こう言ったとのことである。「許してやる方が(罰を科して)後悔するよりもよい」と。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝(上)」より

これはピッタコスの寛容を強調した話なのでしょうか? それはともかくとして上の話からは、当時人々がキューメーとミュティレーネーの間を気軽に往来していた様子が伺えます。

    (右:ピッタコス