神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(19):ペルシア戦争

イオーニアの反乱は鎮圧されましたが、この反乱にアテーナイと、エウボイア島のエレトリアは援軍を出していました。ペルシア王ダーレイオスは、そのことを口実に、アテーナイとエレトリアを征服するための軍を派遣することにしました。これが1回目のペルシア戦争です。

新たに任命された司令官とはメディア出身のダティスと自分の従兄弟に当るアルタプレネスの子アルタプレネスの両名であった。ダレイオスはこの二人に、アテナイエレトリアを隷属せしめ、奴隷とした者たちを自分の面前に曳き立ててくるようにとの命を下し出発せしめたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、94 から

司令官に任ぜられた右の二人は王に暇(いとま)を告げると、十分に装備を整えた陸上部隊の大軍を率いて進発し、キリキアのアレイオン平野に到着したが、ここで陣営を張って待機している間に、かねて諸民族に供出を命じてあった海上部隊がことごとく参集してきて陸軍に合流し、さらに前年ダレイオスが自国の朝貢国に調達方を手配しておいた馬匹輸送船も到着した。そこで馬はこの馬匹輸送船に載せ、また陸上部隊を艦船に乗船せしめて、六百隻の三段橈船をもってイオニアに向って出航した。
 しかしペルシア軍はここからヘレスポントスおよびトラキアを目指して大陸沿いに船を進めることはせず、サモス島を発してイカロス島を過ぎ、島嶼の間を縫って航行した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、95 から

上の引用で「諸民族に供出を命じてあった海上部隊がことごとく参集してきて」とあるので、サモスも軍艦をキリキアのアレイオン平野の港に派遣したことでしょう。そしてペルシアの陸軍兵士を載せて他の船団と共にサモスに戻り、さらにエーゲ海を西に航海していったのだと思います。


このペルシア軍は、目標のひとつだったエウボイア島のエレトリアを征服し、そこの住民を捕獲しました。次にアテーナイを目指して、アテーナイ近郊のマラトーンに上陸したのですが、そこでアテーナイ軍に大敗したのでした。

ペルシア軍はアテーナイをあきらめて撤退することにしました。こうして1回目のペルシア戦争終結しました。


ダーレイオスは雪辱のため再度遠征軍の派遣を計画しましたが、その準備の途中で寿命を迎えてしまいました。息子のクセルクセースが即位し、父ダーレイオスの遺志を継いで、1回目のペルシア戦争の10年後に、より大規模な軍を編成し、王自らそれを率いてアテーナイに攻め込みました。ペルシアの陸上部隊海上部隊が北からアテーナイを目指して進軍する途中ではさまざまなドラマがあったのですが、ここでは省略します。ギリシアの連合軍がペルシア軍の南下を食い止めるのに失敗したあと、アテーナイが取った作戦は、アテーナイを放棄し全員を近くのサラミース島に避難させ、海戦に全てを賭ける、というものでした。

アテーナイはペルシア軍に占領されます。建物には火をつけられ、全土を破壊されます。ペルシア王クセルクセースは勝利を確信しました。彼はペルシアの艦隊をサラミース島とアテーナイの間の海に配置させ、ギリシア連合軍との海戦に挑みました。そして自分自身はサラミース島の対岸にあるアイガレオスという山の麓に玉座を据えて座り、この戦いを督戦することにしました。そして書記をそばに控えさせ、自軍の将兵の誰が手柄を立て、誰が卑怯な振舞いをしたのか、を記録するように命じたのでした。


後世サラミースの海戦と呼ばれることになるこの海戦で、サモスの艦隊はペルシア側で戦い、その戦いぶりでクセルクセース王の称賛を得たのでした。

 アテナイ軍の正面に布陣していたのは、エレウシス側の西翼を受け持つフェニキア部隊で、スパルタ軍に対したのはペイライエウス側の東翼に当るイオニア部隊であった。(中略)私はここにギリシア船を捕獲した三段橈船の艦長の名多数を列挙することができるが、いまはともにサモスの出身であったアンドロダマスの子テオメストルと、ヒスティアイオスの子ピュラコスの二人の名以外は挙げぬことにする。特にこの二人の名のみを挙げる理由は、テオメストルがこの功によりペルシア人に擁立されてサモスの独裁者となり、ピュラコスは王の恩人としてその名を記帳され莫大な領土を与えられたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、85 から

上の引用で、テオメストルは奮戦の褒美としてサモスの僭主に擁立された、とあります。すると今まで僭主だったアイアケスはどうなっていたのでしょうか? この海戦以前にアイアケスは死去していたのか、あるいは何かの事情で失脚していたのか、それともこの時までサモスの僭主であったのが、ペルシアによってテオメストルに交代させられたのか、残念ながら分かりません。


さてサモスは奮戦したのですが、サラミースの戦いはペルシア側の大敗でした。ペルシア艦隊は、小アジアキューメーに撤退し、その後、サモスに集結しました。

一方クセルクセスの水軍の残存部隊は、サラミスから脱出してアジアに達し、王とその軍勢をケルソネソスからアビュドスに渡らせた後、キュメで冬を過した。春の萌しとともにサモスに集結したが、ここには艦隊の一部が冬営していた。(中略)何分はなはだしい打撃を蒙った後であるので、それ以上西へ向うことはせず、それを強制するものもないままサモスに居坐り、イオニア船を加えて合計三百隻の陣容をもって、イオニアが反乱を起さぬように警備していた。もちろんギリシア軍がイオニアに来るはずはないと思っており、彼らがサラミスから逃亡した際にもギリシア軍は追跡してこず、喜んで戦場から引き揚げていったことから判断して、自分たちは自国の警備に当っておれば十分であると考えていた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、130 から

サモスはペルシアのエーゲ海における前線基地とされたわけです。


一方、ギリシア諸都市の連合海軍は最初はアイギーナ島に、次に東に進んでデーロス島に集結していましたが、彼らは残念ながらそこより東に進む勇気を持ち合わせていませんでした。

 全艦船がアイギナに到着した頃、イオニアからの使節の一行がギリシア陣営にきた。彼らは(中略)ギリシア人のイオニア出兵を懇願するために(中略)アイギナにきたわけである。しかし彼らはギリシア軍をデロスまで連れ出すのがやっとのことであった。それより先は地理に不馴れのため、ギリシア軍にとってはなにもかも恐ろしく、いたるところに敵兵が充満しているような気がしたのである。(中略)こうして符節を合せたように、ペルシア軍は恐れをなしてサモスより西方に船を進める勇気はなく、一方ギリシア軍もキオス人たちの懇請にもかかわらず、デロスより東方へは敢えて進もうとしなかった。要するに恐怖感が両軍の中間地帯の安全を確保したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、132 から