神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アカントス(2):ペルシアの支配

英語版のWikipediaの「アカントス」の項によれば、アカントスの港を通して交易されるのは、近くの森林からの木材や鉱物(おそらく銀)、そして農産物だったということです。さて、コインが発行され始めたBC 530年頃は東からペルシア王国が勢力を伸ばしていた頃です。ペルシアの勢力が最初にアカントスに迫ったのはおそらくBC 513年頃でしょう。BC 513年頃、ペルシア王ダーレイオスが臣下のメガバゾスにトラーキア地方の平定を命じています。たぶんこの時にアカントスはペルシアに臣従したようです。

ダレイオスはトラキアを通過して、ケルソネノスのセストスに着いた。ここから自分は船でアジア(小アジアのこと)に渡ったが、ヨーロッパにはペルシア人メガバゾスを総司令官として残しておいた。


ヘロドトス著「歴史」巻4、143 から

ダレイオスがヨーロッパに残していった、メガバゾス麾下のペルシア軍は、ヘレスポントス附近の町のうち、ダレイオスに従おうとしないペリントスを、最初に制圧した。(中略)ペリントス攻略の後、メガバゾスはトラキアを通って軍を進め、この地方の町および民族をことごとく大王に帰属させた。トラキアを平定せよという指令を、ダレイオスから受けていたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、1~2 から


その後、BC 499~493年にイオーニアの反乱があり、それに加担したアテーナイとエレトリアを懲罰するという口実でペルシア王ダーレイオスはBC 492年に臣下のマルドニオスにアテーナイとエレトリアへの遠征を命じました。

さて春になって他の諸将は大王によって司令官の職を解かれたが、ひとりゴブリュアスの子マルドニオスは海陸の大軍を率いて沿海地方に下った。彼はまだ年も若く、ダレイオスの娘アルトゾストラを妻に娶ったばかりであった。マルドニオスはこれらの軍勢を率いてキリキアに着くと、自身は乗船して艦隊とともに発進し、陸上部隊は他の指揮官がこれを率いてヘレスポントスに向った。
(中略)ここ(=ヘレスポントス)で海陸の大軍の集結を終ると、ペルシア軍は海路ヘレスポントスを渡り、ヨーロッパに入って進撃したが、目指すところはエレトリアアテナイであった。
もっともこの二都市は、ペルシア側にとっては単にギリシア遠征の口実に過ぎず、彼らはできる限り多くのギリシア都市を征服する心組みであった・・・・

ヘロドトス著「歴史」巻6、43~44 から

この時、ペルシアの陸海の軍隊はエーゲ海の北岸に沿って西に向かって進みました。そしてとうとうアカントスに到来したのでした。しかし、このあと海軍のほうはアトス半島に沿って航行中に難破して大破してしまい、これが原因で遠征は中止になりました。

 遠征軍はタソスからさらに進んで大陸の海岸沿いにアカントスに達し、アカントスを発してアトス半島を回航しようとした。ところがアトス沖を航行中、ほどこす術もないほど猛烈な北風が激しく吹きつけ、艦船多数がアトス岬に打ち当てられた。伝えられるところでは、艦船約三百隻が破壊され、人員の喪失は二万人を超えたという。アトス沿海はことに海獣が多いため、海獣の餌食となったものもあり、また岩礁に当って死んだものもあれば、泳ぎを知らぬために死んだもの、凍死したものなどもあった。
(中略)
マルドニオスはしかし、ブリュゴイ族を平定した後、兵を引き上げた。陸上では対ブリュゴイ戦で、海上ではアトス沖で多大な損害を蒙ったからで、かくてこの遠征軍は悪戦苦闘の末アジアに撤収したのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、44~45 から


(上:アトス半島)


この時アカントスの人々がどのように対処したのか分かるといいのですが、情報がなさそうです。上の記述では、ペルシア軍がアカントスに到着してからそこを発するまでの間に何も出来事がなかったようですから、アカントスの町はおとなしくペルシア軍を受け入れたのだと推測します。


さて、BC 490年、ダーレイオスは遠征軍の司令官を交代させ、再度アテーナイとエレトリアへの遠征軍を派遣しています。今度はエーゲ海の真ん中を通る侵攻経路を採用しました。この経路を選んだのは、アトス半島でのペルシア艦隊の遭難がダーレイオスのトラウマになっていたからなのでしょう。