神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アカントス(4):サラミースの海戦

前回お話ししたクセルクセースの運河ですが、そもそもこの運河はそれほど必要ではなかったとヘーロドトスは書いています。運河建設はクセルクセースの見栄だと彼は言います。権力者の見栄のために多くの人々が苦労するというのは、やりきれない話ではありますが、よくありそうな話でもあります。

私の推測するところでは、クセルクセスがこのような運河の開鑿を命じたのは一種の見栄によるもので、彼はこれによって自分の力を誇示するとともに後世の語り草となるものを残したかったのであろう。というのは船団は曳いて地峡を渡すことも容易なことであったのに、彼は二隻の三段橈船が橈を使いながら並んで通過できるだけの広さの運河を海代りに掘ることを命じたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、24 から


ところで、アカントスの人々もクセルクセースの軍に従軍したものと思われます。

 ここからポセイデイオン岬附近の湾を左手にしながら、シュレウス平野と呼ばれる平原を進んでいったが、ギリシアの町スタギロスを過ぎ、やがてアカントスへ着いた。この間ペルシア軍は、先に列挙した諸民族の場合と同様に、途上に住む民族およびパンガイオン山周辺の住民をことごとく傘下に加え、海辺に住むものたちは水軍に、海岸より奥地の住民は陸上部隊編入して従軍せしめたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、115 から

この記述はアカントスに軍が到着するまでのことを述べていますが、同じことはアカントスでも行われたと思います。アカントスは海辺の町ですから、水軍に編入されたのでしょう。アカントスを過ぎてからもペルシア軍が途上の町々から兵士や軍船を供出させていたことは、次の文章からも分かります。

ペルシア王の軍勢がギリシアの中心部に進むにつれて、これに参加する住民の数は増していったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、66 から

この軍勢はアテーナイ沖でのサラミースの海戦でギリシア諸都市の連合軍に敗れます。サラミースの海戦でアカントスの水軍がどんな戦いをしたのかについては記録がないようです。そして敗戦が明らかになったあとアカントスの水軍がどうしたのかについても明らかではありません。

(上:ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ作「サラミースの海戦」)


ただヒントになる記述があります。アカントスと同じカルキディケー地方にポテイダイアという町があります。カルキディケーの3つの半島のうちの一番西側の半島をカサンドラ半島といいますが、ポテイダイアカサンドラ半島にありました。この町からも船舶と兵員が徴用されていました(ヘーロドトス「歴史」7.123)。しかし、サラミースの敗戦ののちクセルクセースが慌てて本国に帰国するとポテイダイアはペルシアに反旗を翻しました。

ポテイダイア人はペルシア王がすでに通過し終り、ペルシアの水軍もサラミスから逃亡して姿を消した後は、公然とペルシアに叛いていたのである。そしてパレネ地方(=カサンドラ半島)の他の住民も同様であった。


ヘロドトス著「歴史」巻8、126 から

このように反乱を起こすことが出来たということから、ポテイダイアからの兵員がすでにペルシア軍から離脱していたことが推測出来ます。そうでなければポテイダイアからの兵員はペルシア軍によって殺されるかあるいは捕虜にされるからです。おそらくサラミースの敗戦ののちポテイダイアの船は戦場を脱してポテイダイアに逃げ帰ったのでしょう。ここから推測すると、アカントスの水軍もサラミースの戦場から逃げてアカントスに戻ったのだと思います。上の引用にあるようにカサンドラ半島の町々はペルシアに反旗を翻したということですが、この記事にはアカントスやアトス半島のことは触れられていないので、アカントスはおそらくペルシアに反旗を翻すまでには至らなかったと思います。この期間は様子見だったかもしれません。この時期、勝ったギリシア連合軍はペルシアに協力したアンドロス島や、エウボイア島の町カリュストスを懲罰攻撃しました。この軍がやがてアカントスを攻撃する恐れもありました。一方ペルシア軍の一部はペルシアの高官マルドニオス(12年前、アトス半島での難破があった時にペルシア軍を率いていた人物です)に率いられてギリシア本土北部のテッサリアに駐留していました。クセルクセース王は帰国してしまいましたが、マルドニオスは翌年にギリシア本土全域の征服を再挑戦するつもりで、戦争準備をしていました。こちらの軍の動向もアカントスとしては気になります。アカントスは両者のどちらに着くべきか、判断に迷う状況でした。