神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス(9):デーロス同盟

このあと、ギリシア側はペルシア軍をエーゲ海から駆逐していきます。その過程でアテーナイが中心になってギリシア諸都市からなる対ペルシア軍事同盟が結ばれました。これがデーロス同盟です。同盟参加国は軍船と軍隊を提供するか、その代わりとして年賦金を提供することになりました。アテーナイはカリュストスに対してもデーロス同盟に参加するよう要請してきました。しかし、今までのアテーナイのやり方に反感を持っているカリュストスはそれを断りました。するとアテーナイは力づくでカリュストスを同盟に参加させようとして軍船を派遣しました。

アテーナイ人とカリュストス人との間に戦が起った。他のエウボイア諸都市はこの事件には中立を保っていた。やがてカリュストス人は条件降伏を行った。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 98」より

この戦争はBC 476年のことと推定されています。この戦争後、カリュストスは同盟に参加し、年賦金を支払うことになりました。


さて、デーロス同盟ではアテーナイの発言権が大きくなり、同盟参加国はそれを重荷に感じるようになりました。例えばナクソスは、サラミースの海戦の時はペルシアから軍船派遣要請があったにも関わらずギリシア側で戦った国なので、本来であればデーロス同盟の支持者のはずでした。しかしナクソスは、デーロス同盟から抜け出そうとしたために、アテーナイの攻撃を受けて、屈服しています。それはカリュストスが同盟に参加してから間もない頃でした。

これらの事件後、同盟から離脱したナクソス人に対してアテーナイは兵を進め遂に城攻めにして降伏させた。これはかつて同盟国であったものがその権限を奪われてアテーナイの隷属国となった最初の例であるが、これと同じ運命は残余の同盟諸国をも次々に襲うこととなった。


同上

もうこうなるとデーロス同盟は自由意志で参加する同盟ではなくなっています。このあとつぎつぎに同盟諸国がアテーナイの隷属国になっていきます。



BC 446年頃、アテーナイは1000人のアテーナイ人を植民者としてカリュストスに送り出しました。これらの植民者はカリュストスに住むものの法的にはアテーナイ人とされていました。このようなことは同じエウボイア島の都市カルキスでもすでに行われていました。これに危機を覚えたエウボイアの諸都市はスパルタと協定を結んでカリュストスを含むエウボイア全島がアテーナイに対して反乱を起こしました。同時にスパルタもアテーナイに攻め込みました。しかし、エウボイア島の反乱はアテーナイの優れた政治家ペリクレース(右の画像)によって、鎮圧されてしまいます。

まずエウボイアーの人々が離反したのでペリクレースは軍隊を率いてそこに渡った。その後まもなくメガラの人々が敵方にまわってスパルタ王プレイストーナクスの率いる敵の軍隊がアッティケーの境に迫っているという知らせがあった。そこで再びペリクレースは全速力でエウボイアーから戻り、アッティケーの戦争に向ったが、数も多く勇敢で遷移に満ちている重装兵を相手に戦いを交えることは思いとどまり、プレイトーナクスがまだまったく若く、相談役の中でも、エフォロスたちがこの王の年齢を考えて側近の守護者として遣わしたクレアンドリデースを一番頼りにしているのを見てひそかにこの人を試し、やがて金銭で買収してスパルタ軍をアッティケーから引くようにさせた。
(中略)
離反した人々に再び目を向け、五十隻の軍艦と五千人の重装兵をもってエウボイアーに渡ってそこの町々を屈服させた。


プルータルコス著「ペリクレース伝」22~23節 河野与一訳 より(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

さらに、その後のペロポネーソス戦争の期間中にも、全エウボイアはアテーナイに対して反乱しています。ペロポネーソス戦争というのは、アテーナイを中心とするデーロス同盟とスパルタを中心とするペロポネーソス同盟の間の戦いであり、BC 431年からBC 404年まで、27年間に渡って続きました。カリュストスを含む全エウボイアがアテーナイに反乱したのは、BC 411年のことで、今度の反乱は成功しました。この反乱も一因となってアテーナイは最後には、ペロポネーソス同盟に降伏せざるを得ませんでした。しばらくはカリュストスの独立が保たれたようで、その独立は北方のマケドニア王国に併合されるまで続きました。