神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アカントス(5):ペロポネーソス戦争

翌年(BC 479年)、マルドニオスはペルシア軍を率いてギリシア本土を南下し、再びアテーナイを占領しました。しかしその後プラタイアの戦いで、ギリシア軍に敗北し、マルドニオスは戦死しました。ほぼ同じ頃、ギリシアの連合海軍は、イオーニア地方のミュカレーの戦いでも勝利し、これら2つの勝利によってペルシアのギリシア侵攻は完全に停止しました。このあとエーゲ海からペルシアの勢力は一掃されます。やがて、アテーナイが対ペルシアの軍事同盟であるデーロス同盟を組織すると、アカントスはこの同盟に参加し、査定された年賦金を同盟に支払うようになります。

(上:アカントスの町のあったところ)


このデーロス同盟は、年が経つにつれてアテーナイが同盟諸国を支配する組織に変質していきます。同盟加盟国が納める年賦金も、同盟という組織にではなく、アテーナイのふところに入るようになっていきました。いくつかの都市はデーロス同盟から脱退を表明しましたがアテーナイは脱退を許さず、同盟軍を率いてそのような都市を攻撃し、アテーナイの属国にしてしまいました。アカントスはアテーナイに反対できるだけの力はなく、不満に思いながらもデーロス同盟に参加し続け、アテーナイの定めた年賦金を払い続けていました。このようにアテーナイに不満を持つ同盟参加都市は多くありました。一方、アテーナイの勢力拡大はスパルタを中心とするペロポネーソス同盟諸国からも警戒の目で見られました。そしてデーロス同盟とペロポネーソス同盟は何回か衝突しました。



BC 432年、アカントスからそれほど遠くはないカサンドラ半島にある都市ポテイダイアとその周辺の諸都市がアテーナイから離叛しました。これが発端となって(これだけが原因ではありませんが)デーロス同盟とペロポネーソス同盟が全面的に戦うペロポネーソス戦争が始まりました。ポテイダイアがアテーナイから離叛したのにはもっともな理由がありました。ポテイダイアは周辺諸都市とともにデーロス同盟に参加していましたが、この都市はこの地方では唯一のコリントスの植民市でもありました。そしてコリントスはペロポネーソス同盟の中の有力国でした。このためポテイダイアは、デーロス同盟とペロポネーソス同盟の間の対立が深まるとその板挟みになる立場にあり、そのためにとうとうアテーナイ側からの離脱を決意したのでした。ポテイダイア周辺の諸都市は、ポテイダイアが悩んだような立場にはありませんでしたが、ポテイダイアがアテーナイ支配から離脱するならば我々も離脱しようという気持ちで、叛乱に加わりました。


この時アカントスは叛乱に加わりませんでした。しかし、アカントスの貴族派はスパルタの助力があればアテーナイに叛旗を翻すつもりでしました。一方、アカントスの民衆派はどちらかと言えばアテーナイの味方でした。アカントスは当面おとなしくしていましたが、ポテイダイアはアテーナイ軍によって包囲攻撃を受けました。ところでポテイダイアは叛乱前にスパルタに援助を要請しておりました。スパルタとその同盟国はこの要請に従ってアテーナイ周辺の耕作地を破壊しました。しかし、アテーナイ側はアテーナイの城壁の内部に閉じこもり、スパルタとその同盟軍と戦おうとしませんでした。そして、軍船でスパルタやスパルタの同盟国の海岸を荒らして回りました。スパルタの目論見では、アテーナイに軍を進めれば、アテーナイはポテイダイアから兵を引いてアテーナイの防衛に充てるだろうと予想していたのですがその予想は外れ、ポテイダイアのアテーナイ軍はそのまま包囲を続けました。BC 430年、ポテイダイアはアテーナイに降伏しました。ポテイダイアの住民は町からの退去を許され、各地に落ちのびていきました。一方、ポテイダイアはアテーナイ軍に占領されました。ポテイダイアの叛乱は終息したもののその周囲の諸都市はアテーナイに抵抗していました。その後、両同盟の主戦場が移ったために、カルキディケー方面は膠着状態になります。


BC 424年、カルキディケーの諸都市はスパルタに救援を要請しました。要請した諸都市の中にはアカントスも含まれていました。スパルタは有能な将軍ブラーシダースに重装兵700名をつけてカルキディケー地方に派遣しました。

アテーナイから離叛したトラーキアの諸邦(=カルキディケーの諸国)(中略)が、遥々ペロポネーソスからこの遠征軍を迎えた理由は、戦局がアテーナイ側に好転しつつあるのを知ってかれらは再び身に危険が及ぶのを恐れたためである。カルキディケーの離叛諸邦はアテーナイ人の攻勢が先ず自分たちに向けられるであろうと考えていたし(これらに加わって、まだ離叛していないその隣邦諸邦もひそかに遠征軍誘致に名を連ねていた)、(中略)そしてたまたまその頃ラケダイモーン(=スパルタのこと)側に敗北が重なったことが幸いして、比較的容易にペロポネーソスから遠征軍を招致することができたのである。
というわけは、ペロポネーソス半島に対するアテーナイ側の攻撃が熾烈化するにつれて、ラケダイモーン人は逆にアテーナイ側の同盟諸地に遠征軍を送り側面から打撃を与え報復すれば、アテーナイ側の関心をもっぱらそちらの方面に外(そ)らすことができよう、との予測をしきりに強めていたからである。加えて、遠征軍を招致する側では、アテーナイから離叛するためには、糧食準備を引きうけると約したので、遠征計画は一そう容易になった。
(中略)そのような訳で、トラーキア遠征に際しても、ラケダイモーン人は喜んで農奴七百名を重装兵としてブラーシダースとともに出発させ、残りの遠征参加者はかれがペロポネーソス諸地から傭兵として徴集、従軍させたものであった。


トゥーキュディデース「戦史 巻4・79~80」より