神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クラゾメナイ(4):キンメリア人とリュディア王国

話を徐々にクラゾメナイに戻していきます。


アリステアースの「アリマスポイ物語」で登場したキンメリア人というのは、今のウクライナあたりにいた遊牧民族だということです。それがどういう理由によるのか、やはり遊牧民族であるスキュタイ人によって追われることになり、南下していきました。キンメリア人は黒海沿岸に沿って逃げていき、BC 700年前後に小アジアに到着しました。キンメリア人はそこから進路を西に取り、出会う国々で略奪を繰り返していきました。一方、スキュタイ人たちは途中でキンメリア人を見失い、そのまま南下を続けて、当時のメディア王国を略奪することになったということです。

BC 695年、プリュギア王国はキンメリア人の軍勢に襲撃され、プリュギア王ミダースは毒を仰いで死んだと伝えられています。この後、プリュギアは弱体化し、のちにはリュディア王国に併合されることになります。一方、リュディア王国もBC 650年頃にキンメリア人の攻撃を受け、王ギュゲースは戦死し、首都サルディスもそのアクロポリスを除いて全て占領されました。キンメリア人はさらに西に進んで、エーゲ海に面したイオーニア地方も襲います。

キンメリア人がイオニアに侵攻したことがあったが、それも国々を征服するというようなことではなく、単に略奪を目的とする侵入にすぎなかった(後略)。


ヘロドトス著 歴史 巻1、6 から

クラゾメナイの近くのエペソスの町は襲撃され、そこのアルテミス神殿が破壊されたと伝えられています。当時のエペソス在住の詩人カリノスは、エペソスの男たちがキンメリア人に立ち向かうのを鼓舞するための詩を作りました。

敵に対して、自分の国と子らと正しく定まる妻のために
戦うことは男にとって名誉であり光輝である。
されどモイライ(運命の女神たち)が糸をつむぐ時には
いつでも死が来るであろう。


英語版Wikipediaの「カリノス」の項より

残念ながら、クラゾメナイがキンメリア人に襲撃されたのかどうか、来襲されたとしたらどう対処したのか、は伝えられていないようです。ただ、クラゾメナイではこの頃にティメシオスがトラキアアブデーラに植民市を建設しています。これはキンメリア人を避けるための植民だったかもしれません。



キンメリア人を小アジアから駆逐したのは、リュディア王ギュゲースから3代のちのアリュアッテスでBC 600年頃のことした。これでクラゾメナイも安心できたかというとそうではなく、今度はリュディアがクラゾメナイを攻撃してきたのでした。クラゾメナイはこれを撃退します。

このアリュアッテスは、デイオケスの子孫であるキュアクサレスおよびその指揮下のメディア人と戦い、キンメリア人をアジアから駆逐し、コロポンの植民都市であるスミュルナを占領し、クラゾメナイに侵攻した。ただしクラゾメナイでの作戦は思うにまかせず、散々な目に遭って撤退したのであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、16 から

しかし、次のリュディア王クロイソスの時には、クラゾメナイはリュディアに服属せざるを得ませんでした。

アリュアッテスの死後、その子クロイソスが三十五歳で王位を継いだ。クロイソスが攻撃の戈を向けた最初のギリシア都市はエペソスである。(中略)クロイソスはエペソスに先ず手を染めたのであったが、ついでイオニア、アイオリスの全都市にさまざまな言い掛かりをつけて攻撃した。重大な理由の見付かるときは、それをもち出すのであるが、時にはとるに足らぬ口実を盾にすることもあった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、26 から

リュディアは、大陸にあるイオーニア都市の全てを支配下に置きました。