神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーロス(2):フィラコピ遺跡

考古学のほうに目を向けてみますと、メーロス島にはフィラコピ遺跡というBC 2300年までさかのぼることが出来る遺跡があります。この遺跡から分かる最初の時代はBC 2300年からBC 2000年までの時代で、キュクラデス文明の中の一時期と位置付けられ、この時期のことをフィラコピで典型的に出土される物の文化という意味で、フィラコピ文化と呼んでいます。


その後もこの遺跡には人が連続して住み続けたということです。BC 1550年頃には、下の画像にあるようなトビウオの生き生きとした壁画が作られました。


このトビウオの壁画は、同時代のテーラ島の壁画を思い起させます。




テーラ島出土の壁画)


これらは南のクレータ島を中心とするミノア文明の影響ということです。この時代はギリシアの古典期(いわゆる私たちが古代ギリシアとしてイメージする時代。BC 479~BC 338年)からは千年も前の時代なので、古典期のギリシアにその頃の出来事を伝えた伝説を見つけようとしても、なかなかなさそうです。私はあまり根拠はないのですが、トゥーキュディデースの以下の記事が、当時のメーロス島にも当てはまるのではないか、と想像しています。

伝説によれば、最古の海軍を組織したのはミーノースである。かれは現在ギリシアにぞくする海の殆んど全域を制覇し、キュクラデス諸島の支配者となった。そしてカーリア人を駆逐し、自分の子供たちを指導的な地位につけて、島嶼の殆んど全部に最初の植民をおこなった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、4 から


ミノスというのは伝説的なクレータの王です。その息子たちがエーゲ海のいろいろな島に派遣されて、クレータの支配権の下で島を統治していたというのです。当時のメーロス島もそのような状況下にあったと私は想像します。


しかし、このようなクレータの影響も、BC 1500年頃のテーラ島の大噴火の後には弱まるそうです。そして、やがてミュケーナイ文明の影響が現れてきます。このミュケーナイ文明の時代がギリシアの神話・伝説の時代に対応するようです。それでは伝説は、メーロス島についてどんなことを語っているか調べてみたのですが、メーロス島に言及した伝説はほとんどありませんでした、その中で見つけたのが、アテーナイ王メネステウスがトロイア戦争に参加したのち、メーロス島に行き、そこの王であったポリュアナクスの死後、メーロスの王になった、という伝説です。


メネステウスというのはテーセウスがアテーナイを不在にしている間に王位を奪った者です。とはいえ、彼もまたアテーナイの王家の血を引いた者でした。伝説によればテーセウスはその時、生きながら冥界に降っていって、冥界の王ハーデースによって捕らえられていたのでした。それを助けてテーセウスを地上に連れて帰ったのは有名なヘーラクレースでした。


しかしテーセウスが戻ってみるとアテーナイの人々はメネステウスの支配に服しており、ほとんどの人がテーセウスの帰国を喜んでない、という状況に直面したのでした。そこでテーセウスはアテーナイの王位を奪回するのを諦め、スキューロス島へ向いました。スキューロス島の王リュコメーデースの許にテーセウスは滞在していましたが、ある時、リュコメーデースがテーセウスを高い崖から突き落として殺してしまったのでした。リュコメーデースがそんなことをした理由はよく分かりません。テーセウスの子供たちは、エウボイア島のエレペーノールの許に避難していました。


このようなことがあったのちに、トロイア戦争が始まります。アテーナイ勢はメネステウスの指揮の下に参戦しました。一方、テーセウスの子供たち、デーモポーンとアカマースはエウボイアのエレペーノールの配下としてトロイア戦争に参加しました。トロイア戦争後のことは、いろいろな伝説があってはっきりしません。ある説ではメネステウスの死後デーモポーンがアテーナイ王位を得たということですが、メネステウスが自発的にデーモポーンに王位を譲り、自分はメーロス島に退去したという説もあります。また、メネステウスが王位を譲ったのは自発的にではなく、アテーナイの人々がデーモポーンを王位に迎えたため、という説もあります。というのは、その当時アテーナイの町にいろいろな不祥事が起きたために、アテーナイの人々はテーセウスの無念を今さらながら思い出して、それを不祥事の原因と考えたのでした。そしてテーセウスの霊を慰めるために、アテーナイ市民はテーセウスの息子のデーモポーンを王位に迎えたのでした。


さて、話をメーロス島に戻しますと、メネステウスがメーロスの王だったという伝説は、かつてアテーナイの勢力がメーロスにまで及んでいた、ということを表しているのかもしれません。